常に持ち運べ,価格も手頃なラップトップ・パソコンとして登場したDynaBook。その端緒は,1977年にさかのぼる。当時東芝で大型コンピュータ事業を率いていたモバイル放送の溝口哲也代表取締役社長は,マイコンキットの流行に目を付けた。まずデスクトップに置くパソコンを開発するが,製品化には至らず,次にディスプレイ一体型のパソコン開発に取り組んだ。その時意識したのが,“世界標準”。独占していたNECのPC-98シリーズに対抗して新しい市場を作るためだ。ラップトップ・パソコンを開発した経緯と,DynaBookという名称,パソコン技術の意味を聞いた。

 パソコン開発のきっかけはマイコンキットだった。1970年代にはやり出したマイコンキットを見た溝口氏は,子供の頃大好きだったラジオのキットを思い出した。これは大きな市場になる可能性があるのではと考え,秋葉原でショップを訪ねてまわってみた。すると「どの店もビジネスにはならないと口を揃えた」。静電気に弱いICを壊してしまうことが多く,動かないと言って頻繁に持ち込まれるのだという。作り方が分からないという相談もあり,店側の負担は大きかった。

 そこで溝口氏は,「メーカーが組み立てて完成品として売るべきだ」と感じた。責任者を務めていた大型コンピュータ事業が立ち行かなくなり,いろいろな可能性を探っていたという時期でもあった。

 こうして1977年からパソコンの開発を始めた。ちょうどその頃,溝口氏はAlan C. Kay氏の論文に出会う。老若男女の誰もが使え,双方向でコミュニケーションができ,新聞を読んだり音楽を聴いたりできる──,Kay氏が“Dynabook”と名付けたコンピュータのコンセプトである。溝口氏は,「いつか絶対にこのDynabookを作る」と心に決めた。

 1977年3月,溝口氏は「T-400」というパソコンを7台試作した。「PC-8001よりも先に,マイコンではない“パソコン”を作った」。CPUはIntelの8080,テレビをディスプレイとして使いカラー表示ができる。引き合いは随分あったが,2週間ほど検討した相手の会社は時期尚早と結局採用しなかった。

市場は創り出すもの

 1979年になり,NECがPC-8001を投入すると日本にパソコン市場が誕生した。市場は次第にNECの独り勝ちになった。この状況を見ていた溝口氏はこう考えた。「NECが7~8割のシェアで,その残りを分け合う構図ではだめ。市場は創り出さなければならない」。

 ラップトップ・パソコンの開発を始めたのは1983年5月から。開発のコンセプトは三つあった。まず,個人がソフトを作るのではなく専門家が作ったものを使う時代を想定,二つ目が非標準ではなく標準を採用,三つ目がデスクトップではなくポータブル,である。

 1986年春,欧米向けにT3100を,国内向けには同年10月にJ-3100を出荷した。J-3100は,IBM互換機のさきがけである。世界標準を目指したことが感じられる。ただし,これらは厚み80mm,重さ6.8kgと短距離の移動はできるが公共交通機関を使う日本では長い距離を持ち歩けない代物だった。

 J-3100から3年の後,東芝はDynaBook(J-3100 SS001)を発表した。A4サイズ,3.5インチのフロッピ・ディスクを内蔵して厚み44mm,重さは2.7kg。本当に持ち歩ける可能性が出てきた。19万8000円という思い切った価格設定も目をひいた。「20万円を切ったら売れるという考えがあった」という。

「DynaBook」にこだわった

 溝口氏はDynaBookという名称にもこだわった。まず世界的に使えるように商標権を出願した。それほど優れた名称なら世界的にも有名だから簡単には商標を取れないだろうと記者は想像したが,「イギリス,フランス,西ドイツは取得できた」そうだ。「日本と米国はすでに他社が取得していた。日本ではアスキーが商標権を取得していたため,当時の社長だった西和彦氏と話して使用料を払って使えるようにした」。米国では断念した。

 現在溝口氏はパソコン事業に携わっていない。かつてを振り返り「パソコン技術とは点や線ではなく球状のもの。どんどん広がって他のものに影響を与えていく。携帯電話やデジタル対応のテレビにもパソコンの技術が入っている。パソコンでソフトウェアが身近になった」と感じているという。

(堀内)