かつては日本語に特化した配列や信頼性の高い機構を採用するなど,さまざまな製品が世を賑わせた。パソコンが日用品となった今,その付属キーボードの多くはコスト削減を最優先して配列や形状,構造に工夫がない。しかし人とパソコンをつなぐ役割の大切さは今も昔も同じ。もっと高い品質の製品が登場すべきではないか。

(本誌)

 現在,パソコンのキーボードは「106/109A」配列が圧倒的だ。パソコンの解説書やタイピング教本を取ってみても,そのほとんどが「106/109A」キーボードを前提にしている。

 キーボードの機構も同様だ。詳細は後述するが,スイッチはシート状の「メンブレン」,キーを保持する土台はプラスチックの一体成形と相場が決まっている。もはやパソコンは日用品であり,キーボードはその一部にすぎないのでコストを重視した結果だろう。

 しかしキーボードはユーザーが一番使うデバイスの一つである。もっと「使い勝手」に目を向けてもよいのではないか。キーボードの使い勝手を左右するのは,キーの配列および構造と,それを支えるハードウェア機構だ。

人間に合わせてキーを並べる

 今のようにキーボードが画一化されるまで,日本語入力の効率化を図った文字配列や,自然な姿勢でキーを打鍵できる形状を模索した「エルゴノミクス・キーボード」が何度となく提案されてきた。しかし登場時こそパソコンの使い勝手を高める工夫として注目を浴びたが,ごく一部でしか使われていない。

図1●「親指シフト」キーボードの配列
配列は富士通のワード・プロセッサ「OASYS 100F」のもの。
図2●奈良總一郎氏が考案した「ナラコード」配列
使用頻度の高い「きょう」「しょう」など拗音をシフトキーとの同時打鍵に割り当てている。かなの配列は50音表順が基本。
図3●BTRON仕様のパソコン向けキーボード「TRONキーボード」のキー配列
かな配列は文章入力時の手の動きを統計的に研究した上で決められた。英数字はDVORAK配列に準拠している。

 日本語に適したキー配列の日本語キーボードで今でも根強い人気があるものと言えば,富士通の「親指シフト」キーボードであろう(図1[拡大表示])。親指シフトの特徴は,通常スペース・バーがある位置にある「親指シフト」キー。このキーと文字キーを同時打鍵して日本語入力の効率を高める。親指シフトキーと併用することにより,濁音を含むかなを一打鍵で入力できる。親指シフトキーによって切り替えるので,かな文字を3段に収められる。代わりに一つのキーに二つのかな文字が配置されている。なお,アルファベットの配列はQWERTYである。

 親指シフト・キーボードは当初富士通のメインフレーム端末用に開発された。その後ワード・プロセッサ「OASYS」のキーボードとして普及した。親指シフト・キーボードの市場を支えている層は,当時絶大な人気を誇ったOASYSシリーズで親指シフト・キーボードに触れたユーザーが中心である。その後親指シフトをベースとした「NICOLA」という仕様も制定されている。半濁音の追加や制御キーの配列をパソコンに沿ったものに変更するなど,ワープロを出自とする親指シフト・キーボードより汎用化してある。

 現在市販されているものとしてはほかに,ナラコムの奈良總一郎氏が考案した「ナラコード」配列のキーボードがある(図2[拡大表示])。奈良氏は日本語に促音や拗音を伴う単語が多いという特徴に着目。拗音,促音混じりの言葉をより少ないキーストロークで入力できるようにした。具体的には,促音の「っ」を中央最上段に配置し,「きょう」,「しょう」,「ぎょ」などの拗音付の文字を1キーで打鍵できるように工夫してある。これによって例えば,「とうきょう」は,「とう-きょう」の2打鍵で入力できる。これがJISキーボードによるかな入力では「と-う-き-ょ-う」の5打鍵,ローマ字入力にいたっては「T-O-U-K-Y-O-U」と7打鍵要するのと比べると圧倒的に少ない。覚えやすく目で追いやすい50音表順に配置しているのも特徴だ。

自然な姿勢で打鍵できる形状を模索

 キーに割り当てる文字と配列によって打鍵数を減らす工夫と同時に,肉体的な疲労を軽減する提案がもうひとつの流れとしてあった。キーボードを連続して長時間使用する場合,姿勢を保つ筋肉の疲労が問題になる。キーボードは長方形の土台に格子状にキーを配列するのが一般的だ。このキーの並びに対して水平に手を添えると,脇の下が締まり疲れやすい。そこで長時間使う際の使い勝手を改善する目的で,人間工学(エルゴノミクス)の観点からキーボードの形状を決めたのがエルゴノミクス・キーボードである。

 エルゴノミクス・キーボードの草分けと言えるのが米Kinesis社が1992年に発売した「Contoured Ergonomic Keyboard」だ。キー配列はQWERTYをベースとしている(DVORAK版もある)。キースイッチは左右にあるお椀状のくぼみの壁面にそって並べられている。くぼみのふちをパームレストとしたときにキーと指が自然な位置関係になるため,手首と指を無理に反り返さすことなく操作できる。

 1993年になると,米Apple Computer社が「Apple Macintosh Adjustable Keyboard」を発売した。キーボード中心上端を軸にして左右に扇状に広げられる。広げる角度は手首に合わせて調整できる。1990年代に,Apple,米Digital Equipment社,米IBM社などがキーボード作業におけるストレスによって発生する手首の障害に関して訴訟を起こされたことがあったと記憶しているが,このキーボードはそれに関連があるのかもしれない。1995年になると米Microsoft社も「Microsoft Natural Keyboard」というエルゴノミクス・キーボードを発売している。

 日本のエルゴノミクス・キーボードの代表格と言えば,1983年にNECがPC-8800シリーズ向けに発売した「M式」キーボードと,「TRONキーボード」だろう。

 まず,M式キーボードは,手の指の開きに合わせて扇状にキーを配置してある。英字はQWERTY配列だが,かなは独自配列。日本語をローマ字で入力する際,両手による打鍵が左右交互になるように配列してある。キーボードの左手側にAIUEO等の母音キー群を配置し,キーボードの右手側にKSTNH等の子音キー群を配置することにより,左右交互打鍵を実現した。NECの森田正典氏の考案によるものだ。

 もうひとつのTRONキーボードは,TRONプロジェクト下のBTRONサブプロジェクトにおいて日本語入力のためのキーボードとして開発された(図3[拡大表示])。文章入力時の手の動きを統計的に研究した上で決められたキー配置である。英数字はDVORAK配列に準拠している。


図A●109キーボードと109Aキーボード
日本語106/109キーボードにはWindowsで入力できない文字が刻印されている。「0」キーのシフト文字だ。「~(チルダ)」が書いてあるが,チルダの入力は「^(べき乗記号)」キーのシフト文字として入力する。「£」や「¢」は半角入力モードでは入力できず,2バイト文字としてしか入力できない。

日本語106キーボードの謎

 日本語106/109キーボードにはWindowsで入力できない文字が刻印されている。「0」キーのシフト文字だ。「~(チルダ)」が書いてあるが,チルダの入力は「^(べき乗記号)」キーのシフト文字として入力する。「£」や「¢」は半角入力モードでは入力できず,2バイト文字としてしか入力できない。

 これらの文字は106/109キーボードが米IBM社のメインフレーム端末キーボードとしての利用が残っているためだ。これらの文字はASCIIコードではなく,IBMが決めた8ビットの文字コード「EBCDIC」コードでの使用を前提とした配列であったためだろう。

 この問題を解消するため,DOS/Vのハードウェア仕様策定を主とする標準化団体「OADG(Open Architecture Development Group)」では,109キーボードのキー表記と入力との不整合をなくしたキー配列を「109A」として再定義している(図A[拡大表示])。入力できない文字,使用できない制御キーは削除され,実際に入力できる文字および制御キーの表記に改められた。最近販売されているパソコンでは109A配列が普通だ。


八幡 勇一Yuichi Yawata

ピンチェンジ テクノロジープロモーター
PFU入社以来,ミニ・コンピュータ,サーバ,ワークステーションの開発に携わる。システム・サポート業務を経てPFU研究所に移籍。StrongARM搭載のPDA開発のかたわら,キーボードの配列および構造についてのヒアリングを重ね,東京大学の和田英一名誉教授の協力の下「Happy Hacking Keyboard」を世に送り出した。現在はピンチェンジに在籍。次世代キーボードを中心にさまざまな新製品の開発に従事する。