ノズル数を増やせるサーマル方式

写真●キヤノンのヘッド
半導体製造工程で使うフォトリソグラフィの手法を用い,シリコンを貼り合わせることなく高密度にヘッドを形成する。PIXUS 990iのノズルは,600dpiの間隔で2列のノズルが位置をずらして配置されており,実際には1200dpiでの印刷が可能である。
図3●ソニーが開発したラインヘッド・プリンタ
原稿と同じ幅のヘッドを移動させる。ノズルのばらつきを抑えるために,一つのノズルからさまざまな方向にインクを噴出する仕組みを導入した。ヒーターを二つ配置し,それぞれの発熱量を変えることで方向を制御する。
図4●青と赤のインクを採用した理由
従来はシアンとマゼンタで青を表現していたが,これでは顔料の粒が多すぎて凹凸ができてしまう。また,両方の色をきちんと発色させるためには顔料の量を増やさなければならなかった。セイコーエプソンは青インクを採用してこの問題を解決した。赤インクの追加も同様の理由による。
図5●顔料インクは写真印刷に向かない
顔料が付着した用紙の表面には凹凸ができ,光が乱反射するため光沢が出にくい。セイコーエプソンは,滑りやすくインクが平滑に載りやすい樹脂を開発した。さらにインクが載らない白の部分には,透明な樹脂を吐出する。

 最もシンプルな高速化手法は,ノズル数の増大だ。一度に印刷できる範囲を増やし,印刷にかかる時間を短縮する。

 これで印刷速度の向上を図っているのがキヤノンである。キヤノンは2003年,最上位機種「PIXUS 990i」のノズル数を前年の機種の1.5倍に増やして5376個とした。ピエゾ方式ではセイコーエプソンの最上位機種「PX-G900」の1440個が最大。3.7倍以上の差がある。実際に,両者の最高画質モードで同じ画像を印刷すると,キヤノンの方が1.5倍ほど速い。

 キヤノンのヘッドは,半導体と同じ製造方法で作られている。インクの流路や回路,吐出口などを半導体に一体形成する(写真[拡大表示])。写真の原理を利用して細かなパターンを半導体に焼き付ける「フォトリソグラフィ」という技術を用いている。半導体を貼り合わせている他社のヘッドに比べ,高密度に細かなノズルを配置できる。同社が半導体露光装置のメーカーでもあるからこその強みだ。

原稿幅のノズルを用意する

 ノズルをさらに増やすと,紙と同じ幅のヘッドができあがる。このようなヘッドを,ラインヘッド方式と呼ぶ。通常インクジェット・プリンタはヘッドを左右に動かしながら一定の幅を印刷するが,ラインヘッドならこの手間は必要ない。紙に対して垂直にヘッドを動かすだけで印刷できるため,大幅に速度を上げられる。

 サーマル方式を用いて,こうしたラインヘッドのインクジェット・プリンタを開発中なのがソニーである。実験ではピエゾ方式も試したが「ノズルをより細かく配置できるサーマル方式を採用した」(ソニーIT&モバイルソリューションズネットワークカンパニーe-プリントカンパニープリンター2部1課の竹中一康統括課長)。

 ただしラインヘッド方式には,製造工程でわずかに出るノズルのばらつきを抑えるのが難しいという課題がある。ノズルによって吐出できるインクの量に差が出たり,場合によってはまったくインクを吐出できないノズルができてしまう。

 ヘッドを左右に動かす方式なら,同じ範囲を複数のノズルで印刷するためばらつきは目立たない。しかしラインヘッドでは,基本的に一つのノズルで縦1列を印刷する。インク滴の大きさが揃わず色にムラが出たり,インクを吐出できないノズルの部分は線状に筋が入る。

 ソニーは,一つのノズルから複数の方向にインクを吐出することでこの問題を解決した。一つのノズルにヒーターを二つ配置する(図3[拡大表示])。左右のヒーターの発熱量を変化させて泡の形を制御し,インクを吐出する方向を変える。欠陥があるノズルが打つべきところを左右のノズルが代わりに打ち,筋を防ぐ。

 現在開発中のものは,A4の写真を約6秒で印刷できる。1分ほどかかる家庭用のプリンタと比べものにならないくらい高速だ。ただしヘッドが大きいぶん,一般の家庭用インクジェット・プリンタに比べればはるかに高額になるという。

周波数を上げるピエゾ方式

 一方のピエゾ方式でも,高速化に向けた工夫は盛り込んでいる。このため,機種によってはピエゾ方式の方がサーマル方式よりも印刷が速い。

 セイコーエプソンは,高速化のために大きく二つの工夫をしている。インクを吐出する回数を増やすことと,大きなインク滴を打ち出すことだ。

 インクの吐出回数は,ヘッドの駆動周波数を上げれば増やせる。この点で,ピエゾ方式はサーマル方式よりも有利である。インクの充填を速くできるからだ。

 ヘッドの駆動周波数は,主にインクの充填にかかる速度で決まる。インク滴を打ち出したあと,インク室からインクをノズルに補充するまでは次のインクを打ち出せない。サーマル方式はインクの表面張力だけでインクを充填するが,ピエゾ方式はピエゾ素子を細かく動かしてインクの動きを助けられる。さらにサーマル方式よりもノズルが太いので抵抗が少なく,インクが移動しやすい。ちなみにPX-G900の最大駆動周波数は45kHz。キヤノンの「PIXUS 950i」(2002年末の最上位機種)だと24kHz。およそ倍である。なおキヤノンは,最新機種のヘッドの駆動周波数を公開していない。

 さらにセイコーエプソンは,印刷に大きなインク滴を使うことで高速化を図っている。インク滴が大きいと細かな表現ができないが,1回の吐出で多くの面積を埋められるので速く印刷できる。色が濃く,同じ色目が続く部分なら大きいインク滴でも粗は目立たない。

顔料インクで耐久性を上げる

 速度でサーマル方式に遅れを取るピエゾ方式は,2003年に別の強みを打ち出してきた。印刷結果の耐久性である。顔料インクを採用することで,経年変化に強い印刷を可能にした。

 現在,家庭用のインクジェット・プリンタでは主に染料インクが使われている。染料は,色材が水に溶けて分子の状態で存在している。色材は水と共に紙の繊維に染みこんで発色する。これに対して顔料は,色材が水に溶けていない。粒の状態で水に混ざっており,紙の表面に貼り付いて発色する。

 染料インクの耐久性も,決して低いわけではない。長年の研究の結果,20年以上長持ちするようになっている。ただしアルバムや額などに入れて外気と遮断し,直射日光が当たらない場所に保管しなければこれだけの耐久性は得られない。

 この点,顔料ならばもっと強いインクが作れる。一つひとつの分子の形で色材が存在するのではなく,たくさんの分子がくっついた粒になっているからだ。光やガスなどからダメージを受けた場合,分子レベルではすぐに影響を受ける。一方顔料は,粒表面の色材が劣化しても奥にまだ色材が存在する。このため粒のすべてが退色するまでに時間がかかる。

 また顔料には,水に溶けていないためにじみにくいというメリットもある。このため,各社とも一部のインクに顔料を利用している。ただしそのほとんどが黒に限られる。普通紙にくっきりと文字を印刷する目的である。

 写真印刷に使われるカラーインクには,現在のところ顔料はあまり採用されていない。これには三つの理由がある。

 一つは,染料インクに比べて扱いにくいことだ。「顔料は粒子で存在するので,目詰まりしやすい。さらに色材が水の中に均一に存在しないので,ムラが出やすい」(セイコーエプソン情報画像事業本部TP開発部の林広子部長)。

 二つ目は,光沢感が出にくいこと。顔料を載せた紙の上は粒子によって凹凸ができ,光が乱反射してしまうためだ。普通紙なら紙自体に凹凸があるため大きな問題にならないが,写真を印刷する光沢紙では影響が大きい。

 そして三つ目は,発色の効率が良くないこと。分子単位で紙に染みこんで発色する染料はほぼすべての色材が発色できる。これに対して,顔料は発色に寄与しない色材が多い。用紙に接着した面に存在する色材は発色しないからだ。顔料が重なり合うとさらに色は出にくくなる。上の粒に隠れて下の粒が見えなくなるためだ。

光沢を出せる顔料インク

 セイコーエプソンは今年,これらの問題を解決して顔料インクを使った光沢紙印刷を実現した。まず一つ目の問題は,ピエゾ素子に弱い電圧をかけてヘッドを細かく振動させることにより解決した。「インクを吐出していない間は常に,細かくヘッドをふるわせている。こうして色材を拡散させ,さらに目詰まりも防いでいる」(セイコーエプソンの北原氏)。

 二つ目の光沢印刷を可能にするために,インクに3種類の工夫を盛り込んだ。(1)樹脂の改良,(2)インク濃度の低下,(3)透明インクの追加,である。

 このうち,インクの種類に制限を受けないというピエゾ方式の利点が生きたのが(1)である。インクの成分を改良することで,光沢紙印刷に適したインクを開発した。光沢を出すには,乱反射を防ぐため顔料の粒を紙の上に平坦に載せなければならない。粒が滑りやすい樹脂を開発し,色材が一個所に重なり合わず平らに並ぶようにした。具体的には,樹脂内の分子の結びつきを強めることで実現した。さらにこの樹脂は,紙に載ったインクの上に形成される膜の光沢を良くする効果も備えている。

 (2)は,インク中に存在する顔料の量を減らしたことを意味する。粒の量が多いほど,紙の表面には凹凸ができてしまう。少ない色材で印刷できた方が,凹凸は起こりにくい。

 ただ単純に色材の量を減らすと,色が薄くなり発色が悪くなる。これを補うために,PX-G900は新たに赤と青のインクを用意した(図4[拡大表示])。従来は,赤はイエローとマゼンタ,青はシアンとマゼンタで色を作っていた。「シアンやマゼンタそのままの色なら,インクの濃度を薄くしても同じ色を出せる。ただ赤や青を作ろうとすると,それなりの濃度が必要になる」(セイコーエプソンの林氏)。このため赤や青専用のインクを利用して,シアンやマゼンタの濃度を薄くした。

 ちなみに緑インクがないのは,イエローのインクが元々薄いためそれほど凹凸が出ないからだ。その意味では赤も不要なはずだが,再現できる色空間の拡大にも赤インクが寄与している。緑は既に十分な色空間を再現できていたため,追加は見送ったという。

 (3)の透明インクは,インクを打たない白い部分に載せるために導入された。(1)や(2)の工夫で色材を均一に載せたとしても,インクを打たない白の部分とインクを打った部分の凹凸は解決できない。色材を持たない透明なインクを白の部分に載せて,他の部分との高低差をなくした(図5[拡大表示])。

 最後の発色効率の問題は,顔料の粒を小さくすることで解決した。粒の中に隠れてしまう色材を減らし,発色する部分の割合を増やした。一つの粒が小さいため,粒子が重なっても下の粒が透けて見えるようになった。ただし顔料の粒が小さいと,普通紙などでは紙の繊維の中に顔料が入り込んでしまう。このため「顔料が紙の繊維の中に入り込まず,紙の表面に残るような工夫も加えた。紙の中に染みこんでしまう染料よりも,全体として発色が良くなった」(セイコーエプソンの林氏)。

染料の有望性は残る

 ただし,顔料インクがすぐに染料インクを置き換えるとは考えにくい。セイコーエプソン以外のメーカーは,今のところ染料インクで勝負する考えだ。

 染料でもかなりの耐久性を実現できているというのが日本ヒューレット・パッカードである。「染料でも,額などに入れていれば現状で73年保存できる。保存性だけを見ても,絶対に顔料でなければならないほど染料が劣っているわけではない」(同社のイメージング・プリンティング事業統括本部マーケティングプリンタ・グループの野口伸氏)。

 レックスマークインターナショナルも同じ考えだ。「顔料に比べれば,確かに染料は耐久性の面で弱い。ただ染料でも改良を加えることにより,まだまだ強くできる」(同社のゼネラル・マネージャーマーケティングの木下聡氏)。

 キヤノンは,インクジェット・プリンタの主な用途である写真印刷には,染料の方が向いていると考えている。「発色を考えると,分子レベルで紙を染める染料の方が理想的。印刷後の紙表面の凹凸も,減らせたとしてもゼロにはならない。染料でもまだまだ耐久性を上げられる余地はあり,全色に顔料を採用するのは時期尚早」(キヤノンの中島氏)。

 確かに,染料と顔料の印刷結果には差が見られる。2003年のセイコーエプソンの顔料プリンタと染料プリンタを比べると,色味は少し違う。例えば色の濃い部分や黄色い部分で,染料の方が鮮やかだ。顔料の方が抑えめな印象を受ける。このような色味の違いは,「色材の種類によって最適な色の使い方が変わる」(セイコーエプソンの林氏)ために起こる。

 ただ,このどちらが優れているかは一概に判断できない。好みや印刷する画像によって,善し悪しの判断は別れることになるだろう。「顔料をカラーに採用する計画はあるが,染料を一度にすべて置き換えることはない。染料と顔料の特性に合わせて,両方を組み合わせて使っていくことになる」(レックスマークインターナショナルの木下氏)。

(八木 玲子=日経バイト)