私は時にエンジニアに強く惹かれる。この人が開発した製品を売ってみたいと思うのだ。Carl Theobaldは,私が初めてそんな思いを持った人だ。出会った当時,彼はまだ23歳。スタンフォード大学に通う学生だった。話し始めると私たちは止まらなかった。彼が作りたい製品,私が売りたいもの,市場の動き。話題はどんどん広がった。「そうそう,それよそれ。きっといける!」。会う度にいくら話しても,私たちは飽きることがなかった。

象牙の塔より実業の世界

 Carlの父親は博士号を二つ持つ優秀なエンジニアだが,家庭は裕福でなかった。だから高校時代にはありとあらゆるバイトをしたという。後にCTOとして働くことになるデータベース開発のスタートアップで働き始めたのも高校時代である。ボストンの公立高校を一番で卒業し,プリンストン大学では電気工学を専攻した。奨学金はGeneral Motorsが提供。ここも主席で卒業する。

 卒業後すぐにスタンフォード大学の情報工学の修士課程に入学。学費も寮費も,わずかながらのお小遣いもすべて大学が支払った。大学自らが奨学金を提供するのは異例と言える。それでも実家からの援助は受けられなかったので,生活費はオラクルからパートタイム・ジョブで稼いでいた。

 大学がCarlに奨学金を出したのは,「博士課程に進学して教授の道を歩いてもらいたい」という意図があったからだ。だが彼は誘いにのらなかった。彼の興味は高校時代からスタートアップにあり,そこで自らの実力に見合う報酬を得ることだった。けっしてCarlは金銭欲が特に強いわけではない。勉強もするが,生活をエンジョイするのも大事。だからこそ,自分にとって最高の職を探すのに貪欲なのだ。

 パートタイム・ジョブを通じて彼の優秀さを認識したオラクルは,Carlのリクルーティングに必死になった。説得に当たったのは,Larry Ellison氏に直接レポートする上席副社長。毎日の電話攻勢,夕食,訪問。他の企業からの誘いもあったが,最終的に彼が選んだのは最も高い給与をオファーしたオラクルだった。

 ところが1年後,Carlは高校時代に手伝ったスタートアップに戻る。「スタートアップがしたいんだ」。25歳の彼はそう口にした。

 しかし,このスタートアップは結局うまくいかなかった。Carlを採用した創業メンバーはベンチャー・キャピタルの信頼を得ることができず会社を去った。Carlは製品開発の中心となったが,やがて自分もベンチャー・キャピタルと対立するのではないかという思いを払拭できず,志半ばで断念。3年後にオラクルに戻る。そのとき,オラクルが支払った給与とオプションは,27歳の彼にとって望外なインセンティブだった。

 28歳でVPに昇進。当時のオラクルで最も若い副社長となる。彼にレポートするメンバーは320人を数えていた。ちょうどそのころ,オラクルにCarlを訪ねたことがある。高層ビルの最上階,シリコンバレーを一望できる角部屋を与えられた彼は,その部屋で私にこんなことを打ち明けた。「オラクルは成長している。給与もいい。もらったオプションも悪くない。でもやっぱり起業したい。今,いいアイデアを持っているんだ」。「そんなに走らなくていいじゃない」。私はそう返すしかなかった。

職業は「スタートアップ」

 今年の9月,インデアンサマーの暑いカリフォルニアで久しぶりにCarlと会った。彼はオラクルをやめ,RubiconSoftというスタートアップで創業メンバーとして働いていた。創業メンバーに業界の有名人がいることもあり,RubiconSoftはシリコンバレーではちょっと有名なスタートアップだ。それでもスタートアップであるためのリスクはつきまとう。社員は総勢25人。給与はオラクル時代の半分だ。

 「なぜスタートアップなの?」と聞いてみた。彼曰く,「大企業で成功するには“他人の夢”を追わなくてはいけない。By founding a startup company I can pursue my own dreams(起業して初めて自分の夢が追えるんだ)」。

 シリコンバレーでは,スタートアップは一つの職業として見られることがある。銀行に勤めたり,ハイテク企業のマーケティング担当として働くように,スタートアップすることそのものが職業なのだ。スタートアップを職業とするには,いくつもの条件が必要だ。優秀であること,アイデアが豊富なこと,失敗しても家族を路頭に迷わせないこと…。それらの条件の中で最も重要なのは,夢を追い続けたいという強い欲求と,夢を信じられる強い意志ではないだろうか。Carlを見ていてそう思う。

 Carlはまだ33歳。経済的に最も成功しているエンジニアの一人だ。だが,彼のエンジニアとしての夢はまだかなっていない。高校時代から数えて3度目の挑戦となる今回が,彼にとって本当の夢の始まりなのかもしれない。