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 6月,企業向けIP電話ネットワークが稼働した。昨年の春から検討し,安価で高機能なIP-Phoneを作ってもらったり,IPセントレックスに持たせるPBX機能を検討したりと,さまざまな努力をプロジェクトのメンバーや関係各社と進めてきた。それが結実したのだ。今回は差し支えのない範囲でそのドキュメントを,このプロジェクトにかかわってきた人たちの記念として書き留めたい。

カットオーバーの判断基準

 新しい製品,新しいサービスをこのプロジェクトのために開発し,カットオーバーする。カットオーバーしてもかまわないレベルの品質に達しているのか,設計ミスはないか,これらを判断する判定会議が6月中旬行われた。

 このプロジェクトは規模が大きいので会議の判定を下すのは役員となる。品質を評価するため,設計レビューの結果や試験成績を説明する。設計品質の指標は,ページあたりのエラー率,すなわちレビューでどの程度エラーが見つかったかが基本となる。多すぎるのは良くないが,かと言って少な過ぎるのはレビューが甘い可能性がある。

 試験成績の評価では,そもそも何項目試験すれば十分なのかを判断するのが難しい。ソフトウェアの場合は規模に応じた指標が長年の経験値から導かれている。しかし,今回のような初物づくしのネットワークでは,指標を設定するのは難しい。テストケースにしても,電話の異常系などをやり始めると無限と言っていいくらいたくさん作れてしまう。

 試験成績が形式的な指標値を満たしていることは当然必要だが,それがOKだからといってカットオーバーに耐えられる品質であると100%保証はできない。

 一番大切な判断基準は何だろうか。私の答はいつもながら文学的だ。現場で設計・開発している人が“行ける”と思っているかどうかだ。開発の現場にいて自分の頭と手を使って設計や試験をしている人には,次第に「このシステムは大丈夫だ」,「このシステムは危ない」という感覚が生まれてくる。私は判定会議に臨む前に設計のリーダー,サブリーダー格のメンバーに聞いた。「心配ごとはないかい?」。「ありません」との強い言葉が返ってきた。「じゃあ,会議室に入ろう」。我々は自信を持って説明し,役員のOKをもらった。

現場を見ておくことの大切さ

 移行前日の金曜日,梅雨の盛りの時期なのにこの日は晴れて真夏の日差しだった。街路樹のきれいな街にある現場を下見に出かけた。

 IP-Phoneは2週間前に設置しており,内線や一部の外線のテストは完了している。土曜日に既存の固定電話の番号をIP電話に移行する工事を行い,完全にIP電話に切り替える。この工事を終えてしまうと,余程のことがない限り,切り戻す(移行前の状態にもどすこと)ことはできない。

 私は各種の機器が設置してある通信機械室とIP-Phoneが設置されている事務室を下見するために事業所に出向いた。移行工事当日は移行本部に詰めるのだが,現場を見ておくことは万一のトラブル対応を的確にするうえで大切だ。

 まず,電話がどの程度利用されているかを見る(聞く)。2~3分も事務室にいれば,ひっきりなしに電話のベルが鳴る場所なのか,それほどでもないのかが分かる。これで万一トラブルが出た時の影響度合いをつかめる。

 次に机の配置や通信機械室の機器配置・配線の状況を見る。スペースにゆとりがあり,機器配置や配線が几帳面であることが分かる。少し安心した。

 何より大事なのは,一度現場を見ておくと,現場からトラブル連絡が移行本部にあがったときに,現場の状況を頭の中に描くことができることだ。全体として私は安心感を持って下見を終えることができた。

移行当日

 移行当日,トラブルを防ぐためのアクションはもう取れない。これまでやってきた設計や試験が十分なものだったかどうかが実環境で試される。試験は試験環境で行う。しかし,試験環境が実環境と100%同じということはあり得ない。これがネットワークであれ,システムであれ難しいところだ。

 例えば試験環境より実環境の方がIP-Phoneの数が多い。ケーブル配線の長さも実環境の方が長いので,ノイズが乗りやすい。トラフィックの流れ方も違う。これらの差異が,試験時には発生しなかった「予期せぬトラブル」の原因になることがある。

 移行当日に大切なことは予期せぬトラブルに即応できる体制を取ることだ。そのポイントは現場から離れた場所に移行本部を設けることと,工事の進行管理と指示をする「作業統括チーム」とトラブル対応をする「障害解析チーム」を独立させておくことだ。

 現場と移行本部を分離するのは,複数の現場をコントロールする時には当然のアプローチである。今回の現場は,事業所のほかに,NTT電話局,IPセントレックスを設置してある通信センターの合計3カ所だ。もっとも,たとえ現場が1カ所であっても移行本部と現場は分離すべきだ。戦争に例えるなら,移行本部は指令本部で,現場は前線だ。進行を管理し,状況を分析して対策を講じる人たちが前線にいたのでは,冷静で的確な判断などできない。

 作業統括チームと障害解析チームを分けるのは役割と求められる知識・能力が違うからだ。障害解析チームにはネットワーク機器メーカーの方とキャリアの方にも入って貰い,障害解析に即応するだけでなく,必要があれば新たな戦力を動員できる体制を整えた。移行本部だけで10人体制だ。

 移行作業は土曜日で完了し,確認試験を土曜日夜と日曜日午前中で行う予定だった。土曜日の作業を終わった24時時点では大きな問題はなく,楽観していた。しかし,残念ながら日曜日午前の試験で予期しない不具合が発生した。

 再現試験,データの取得,解析を行い対策案を作成——。その対策にお客様の了解を得たのが日曜日午後9時すぎ。それから対策作業に着手し,現地でのテストを一通りやり直して作業が完了したのは月曜日の午前5時だった。お客様にも立会いだけでなく,いろいろな面で多大な協力をいただき,間に合わせることができた。お客様の理解と協力がなければ切り戻しという最悪の事態になっていたかもしれない。本当にありがたいことと感謝している。

 予期しないトラブルが出たこと自体,自慢できることではない。しかし,万全の体制を取っていたおかげで,お客様,設計者,機器メーカー,工事担当者が連係し,無事にサービス開始にこぎつけることができた。

稼働開始

 月曜日,事業所での業務が始まりIP電話が使われ始めた。移行本部の体制はこの1日,そのまま残している。本部では30分おきに現地の状況報告を受けた。IP-Phoneの操作についての質問や内線電話番号の追加登録があった程度だ。私は外部からIP-Phoneへ電話をかけたが音質は従来の固定電話と区別がつかなかった。

 どうやら今回の移行は成功と言えそうだ。

 まだ一つの事業所が移行しただけだが,プロジェクトとしては60%成功したと思っている。設計,製品の品質・機能,IPセントレックスの機能,LAN構成などに基本的な問題がないことが実環境で証明されたからだ。これから順次事業所を移行して行く上での注意点は拠点が増えるにつれ,トラフィックが増加し,その流れ方も変わることだ。トラフィックが少ないうちは顕在化しなかった不具合がある日突然,トラブルとして現れることがある。

 拠点の増加につれて回線使用率,IPセントレックスの負荷,WAN上でのパケットロスなどが許容値を上回らないよう,チェックしつつ移行を進めねばならない。それでもトラブルはゼロではないだろう。移行本部が予期せぬトラブルに即応できること,お客様とスムーズに連携できることは今後もつねに重要ということだ。

小さな事実の持つ大きな意味

 今回は一事業所でIP-Phoneが稼働したに過ぎない。しかし,これはいくつかの点で画期的な出来事だ。0AB-J番号という,従来事業所で使っていた固定電話用の電話番号をそのままIP電話で使えるようにしたこと,PBXを撤去しIPセントレックスで代表着信,転送,ピックアップなどの機能を実現していること,固定電話並の高品質なIP電話であること,この3点だ。小さな事実ではあるが,その意味は大きい。

(松田 次博)

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松田 次博:情報化研究会主宰。1984年より,情報通信に携わる人の勉強と交流を目的とした情報化研究会(www2j.biglobe.ne.jp/~ClearTK/)を主宰。著書にVoIP構築の定番となっている技術書「企業内データ・音声統合網の構築技法」や「フレームリレー・セルリレーによる企業ネットワークの新構築技法」などがある。NTTデータ勤務。趣味は,読書(エッセイ主体)と旅行。