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 3月24日,日経デジタルコア(http://www.nikkei.co.jp/
digitalcore/
)での講演のため,大手町の日経新聞本社へ出かけた。テーマは企業のIP電話だ。筆者も10年ほど前,大手町に通っていたことがある。「バブルの塔」とあだ名されたビルの隣にオフィスがあった。仕事が深夜におよぶと産経新聞本社の周りに止まっているタクシーで帰宅したものだ。

 当時と比べると大手町,丸の内界隈もずいぶん変わった。産経新聞本社も新しくなり,丸ビルも建て替えられた。しかし,変わらないなあと思うのは街の持つ雰囲気と人の持つイメージだ。やはり,日本のビジネスの中心であり,街も人もその空気を持っている。この空気は好きだ。

主人公はIP-Phone

 講演の始まる10分前,1時50分に日経新聞本社9階の大会議室に着いた。100人あまりの人が集まっていた。正面にはハの字型に机が並べられ,講師である私と東京ガス・情報通信部の田井秀男氏,そしてコメンテーターであるデジタルコアのメンバーが座るようになっている。講演開始までわずかな時間しかないが,まず名簿を見せてもらった。聞く人に合わせて話をするのが講演の鉄則だからだ。

 名簿を見てがっかりした。キャリアやメーカーばかりなのだ。私にとってコンペティターである。しかし,私にとって「お客様」になりうる人がほとんどいないことは残念ではあるが,あまり気を使うことなく話ができるということでもある。

 講演は2時に私の話からスタートした。時間は1時間しかない。自分の席に座ったまま講演できるようにマイクがセットされているのだが,たった1時間の講演を座ったまま縮こまって話したのでは聞く人にインパクトを与えられない。お爺さんの座談会ではないのだ。マイクを持ち,真正面に立って講演することにした。

 右手にマイクを持ち,左手でIP-Phoneを掲げた。

「今日の話の主人公を紹介します。IP電話機です。今,“電話機”と言いましたがこれはコンピュータです。たまたまコンピュータが電話機の形をしているだけです。今日の話の結論の一つを言いました。IP電話の本質的な意味は,電話ネットワークが消えて,コンピュータ・ネットワークだけになることです」。

「デジタルコアの事務局からは,なぜ企業がIP電話を導入するかを知りたい,と依頼されました。ネットワーク・コストの大幅削減のためです。これが二つ目の結論です。」

 ネットワークは実体が見えない。IP-Phoneがいいのは実体があることだ。眼に見える。100人の視線が左手のIP-Phoneに集まるのが分かる。そして,インパクトのある結論を言う。インパクトのあることとは,視点が新鮮なこと,意外なことだ。「IP電話機がコンピュータであり,IP電話とは電話ネットワークを消滅させることだ」,と明確に意識している人は少ない。IP-Phoneと言えばユニファイド・メッセ−ジングに代表される「IPならでは」の使い方が導入の目的,と思っている人が多い。あんな高いものを導入してコスト削減になるはずがない,と思われている。

 自分の認識とかけ離れたことを結論として言われると聞いている人はびっくりする。これで講演は完全に私のペースになった。

東京ガス・プロジェクトのブレークスルーは?

 東京ガス・プロジェクトは昨年春,コンサルティングから始まった。命題はネットワーク・コストの50%削減。そのためにはコストの30%以上を占めるPBXをなくするしかないと考えた。それを実現するのが企業向けのIP電話「IPセントレックス」である。

 しかし,昨年5月の時点で大きな壁にぶつかった。IP-Phoneが高すぎるのだ。ベンダーは平然と「1台10万円,5万円」という。電話機が2万台ある東京ガスで10万円のIP-Phoneを導入したら20億円かかる。コスト削減どころではない。何とか安価なIP-Phoneを手に入れなければと,そればかり考えていた。

 偶然,2002年5月1日の日経新聞に,ユニデンが北米向けにSIP対応のIP-Phoneを開発するという記事を見つけた。ものは試しと打ち合わせを持った。

 私は「東京ガス向けのIP-Phoneを1台9000円で作ってくれませんか。」と口火を切った。他社が10万円で売っているものを9000円ですか,と呆れられたが,私は東京ガス・プロジェクトが持つ意義を訴えてお願いした。東京ガスだけのためでなく,企業のIP電話に対する認識が変わる。ユニデンの認知度も上がる。1週間後,9000円にはならなかったが,1万円台で開発すると約束してくれた。実はここがブレークスルーのポイントだったのだ。

中国生産での意外なノウハウ

 ユニデンがIP-Phoneを安く製造できる理由は二つある。一つはオープンなSIPを使うため,ライセンス料とかロイヤルティを支払う相手がいないこと。IP-PBXやVoIPサーバーとIP-Phoneの間のプロトコルはクローズドなものであり,ライセンス料やロイヤルティを負担せねばならない。その額が1台当たり,1万円を超える金額の場合もある。ユニデン製IP-Phoneそのものより高いのだ。

 二つ目の理由は“ユニクロ方式”を取っていること。設計は日本だが,工場は中国である。ユニデンの米山社長に中国で製造する上で一番難しいのは何かと質問したことがある。技術的な答えが返ってくるかと思っていたら,そうではなかった。中国での生産で一番難しいのは食料調達だそうだ。工場は全寮制で,中国各地から集まってきた約1万2000人が働いている。1日に食べる米が2トン。米の確保だけなら量の問題なので解決しやすい。しかし,中国の人は食にうるさいので,おかずがワンパターンになると暴動が起こりかねない。そうならないよう魚介類,肉類,野菜類を,バリエーションをつけて調達するのが15年間で蓄積した最大のノウハウだという。

「オープン」の持つ二つの意味

 企業のIPセントレックスを使ったネットワークはIP-Phone,事業所内LAN,広域イーサネットで構築されたイントラネット,IPセントレックス・サービス,という四つのコンポーネントで構成される。イーサネットやSIPというオープンな技術だけで構成し,最適なコンポーネントを選択して組み合わせられるようにするのが設計のポイントだ。ユーザーはイントラネットの回線だけ別のキャリアに変えたり,IP-Phoneはそのままで,IPセントレックス・サービスを別のプロバイダに変えることもできる。デジタルコアでの講演では,オープン化とコンポーネント化がユーザーがキャリアやメーカーに縛られず,主導権を保つポイントになると説明した。

 これに対してデジタルコアのメンバーから鋭い質問があった。「SIPは基本機能しか規定していないので,IPセントレックスの持つ転送などの機能は独自仕様になるのではないか?」

 私が一番期待していた質問だ。

「いい質問をしていただきありがとうございます。オープンには二つの意味があります。一つはスタンダードであること,もう一つは無償で開示されているという意味です。確かにIPセントレックスでは,個々の機能をどんなシーケンスを使ってSIPで実現するか,という部分が独自仕様になります。」

「しかし,東京ガス・モデルではこれを無償でメーカーに開示しました。そういう意味で,ベースとなる技術も応用部分も独自で,かつライセンス料やロイヤルティの必要なクローズドなIP-PBXやVoIPサーバーに対してオープンだと言えます。メーカー独自プロトコルでも,無償で開示されるのならオープンと言っていいと思います。」

 なお,SIPベースのIPセントレックスなら,発信着信といった基本機能はベンダー間の差異はほとんどない。応用機能についてもせいぜい東京弁と関西弁の差くらいで,薩摩弁と東北弁ほどの差異はない。従って,あるIPセントレックスで動いているIP-Phoneは,ソフトウェアを少しメンテナンスするだけで他のIPセントレックスでも使える。このため,IP-Phoneはソフトウェアのリモート・メンテナンス機能を備えている。

最高の要約

 後日,講演を聴いた方からメールをいただいた。「IP化,オープン化の流れというのは,どれだけ顧客の立場に立った上で再度収益性を確保できるかという,知恵の見せ所ですね。水平分業でコンポーネントされたサービス形態は,垂直統合・囲い込み型のサービス提供者にとっては利益が確実に減るのでしょうが,それをいつまでも避けているわけにも行かないのでしょうね。」

 この方は新聞社の方だ。本質を理解して,さらに大きな視点でまとめている。講演者としてこんなうれしいことはない。

(松田 次博)

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松田 次博:情報化研究会主宰。1984年より,情報通信に携わる人の勉強と交流を目的とした情報化研究会(www2j.biglobe.ne.jp/~ClearTK/)を主宰。著書にVoIP構築の定番となっている技術書「企業内データ・音声統合網の構築技法」や「フレームリレー・セルリレーによる企業ネットワークの新構築技法」などがある。NTTデータ勤務。趣味は,読書(エッセイ主体)と旅行。