例年夏は情報化研究会のコアメンバーと一泊二日の研究会旅行へ行っている。昨年は高知へ行き,中岡慎太郎や岩崎弥太郎の生家を見学したり,漫画「土佐の一本釣り」の舞台である久礼の漁港を訪ねた。ひなびた漁村で三つくらいの男の子がたらいを使って行水していたのが,のどかで印象に残った。

 今年は7月最後の土日に9人で京都へ行った。4月に京都で研究会をしたばかりなのに,また,である。好きなんだからしょうがない。初日は嵐山でレンタサイクルを借り,ニ尊院と大覚寺へ。

 ニ尊院は百人一首で有名な小倉山の山すそにある。約1200年前に開山。釈迦如来と阿弥陀如来を本尊とすることからニ尊院というとのこと。小倉山の細い山道を10分ほど分け入っていくと,藤原定家が百人一首を選んだという時雨亭跡がある。猫の額のように狭く,暗い山中。たしかにここなら都から遠く,雑音にじゃまされることがなかったろうと思った。百人一首に選ばれれば名が永遠に残るのだから,その選句というのは大変な圧力があっただろう。

 大覚寺ではお説教を聞いた。お盆と正月の起源は仏教伝来以前からあった先祖への収穫感謝の祭だとのこと。正月はお米の収穫,さて,お盆は?という質問に誰も答えられなかった。正解は麦。

 「我慢」という言葉の仏教の世界での意味が,我々がふだん使う「忍耐」という意味とはまったく違うというのも意外だった。我慢とは自分が慢心したり,増長していることを言うとのこと。良い行いをしても,「自分は良い行いをした」と思った瞬間,我慢になってしまうという。厳しいものだ。少しは思い上がったり,はしゃいだりする時もあったほうが人生楽しいと思うのだが,慢心しやすい私としては気をつけなきゃな,とその時は思った。

 説教してくれたのは,30歳くらいの若いお坊さんだったのだが,仏教というまったく違う世界で生きている人の話は面白いものだと思った。寺のそこここでは高校生くらいの若い僧侶が掃除をしており,「こんにちわ」と明るく挨拶をしてくれる。感心したのは皆,顔と声がきれいなこと。二枚目ということではなく,さわやかな顔という意味だ。さわやかな挨拶には,こちらの心も洗われるような気持ち良さがある。

設計に必要な鳥の眼と蟻の眼

 有り難かったり,意外だったりする話はお坊さんの説教だけとは限らない。ふだんの仕事や生活の中でも,ハッとするような言葉に出会うことがある。最近私が出会った一言は,「私は小さなところから積み上げていかないと納得できないんですよ」という部下の言葉。何でもない一言だが,私はハッとした。

 その日,数時間にわたってネットワークの移行設計を打ち合わせた。規模の大きいネットワークの移行設計は複雑だ。現行のネットワークを止めず,機器を無駄にせず,効率的かつ安全に新しいネットワークに移行するには,知恵が必要だ。

 この部下はエースと言える人材だ。この打ち合わせでもホワイトボードの前に立ちっぱなしで,メンバーと議論しながらアイデアをまとめていた。口出しするつもりのない私は,ホワイトボードに次々書き足される図を見ながら若手のやり取りを聞いていた。知恵云々の前に,何時間も立ちっぱなしで議論できるそのパワーに感心した。

 議論も中盤に入ったかというところで,ちょっとおかしいな,と思い始めた。現行ネットワークから新ネットワークに移行する過程で,その間を橋渡しする移行用機器が必要なのだが,その数が多すぎることに気づいたのだ。理論的には,現行ネットワークのカバーする範囲と新ネットワークがカバーする範囲が等しい時点で,もっとも多くの移行用機器が必要になるはずだ。しかし,ホワイトボードに書かれた方法では,予想以上に多い機器を使うことになっていた。この移行方法のどこかに無駄があるのだ。

 ホワイトボードの図は細かい。私は自分の疑問を説明し,もう少し大づかみな図で考えたらどうかとアドバイスした。それから移行対象拠点のグループ分けなどを見なおし,移行方法の組み替えや機器の使いまわしが再度議論された。長い打ち合わせが終わり,一応全員が納得できる案が出来た。やれやれ,お疲れさん,と軽く打ち上げのビールを飲みに行った。口も軽くなったところで出たのが,先の言葉「私は小さなところから積み上げていかないと納得できないんですよ」だ。

 私はハッとして,「そうだなあ,そういう思考方法の人もいないと設計の詰めは出来ないなあ」と気づかされた。物事を高いところから大きく見る,鳥の眼。地面を歩きながらミクロなところを見る,蟻の眼。両方がないと良い設計は出来ない。一人の人間が両方の眼を持っていれば言うことはないのだが,なかなかそうはいかない。やはり,いい設計はレビューを通じて,鳥の眼や蟻の眼を持った人たちのディスカッションから生まれるもんだ,と改めて思った。

URLとURIの違いとは

 もう一つ,面白い話。もっとも,こんなことを面白がるのは筆者だけかも知れない。VoIPで使うシグナリング・プロトコル(相手端末との間にセッションを設定するプロトコル)の一つで,WindowsXPが採用して話題になっているSIP(Session Initiation Protocol)をインターネットで見つけたドキュメントで勉強していた。するとURI=Uniform Resource Identifierという用語が出てきた。

 たとえば,SIPでセッション設定を要求するINVITEというメッセージではsip:matsuda@nikkeibyte.comのように使う。SIPはhttpライクなことが知られているが,こういうのをhttpでは,「URL=Uniform Resource Locator」というんじゃなかったか,と疑問が生じた。こういう言葉の違いにはかなりこだわる性質なのだ。

 こんな時はGoogleで検索するとたいてい答えが見つかる。二つ,三つ見つかった中から,それらしくURIの定義を合成すると,以下のようになる。

 “URIはインターネット上でリソースを識別する文字列である。リソースとはファイル,人,会社など,他と区別できるすべてのものである。httpで一般的なURL(Uniform  Resource Locator)はURIの一種である。Locatorという名前のとおり,URLはIPアドレスなどの具体的なアクセス手段によってリソースを識別する。対して場所の如何にかかわらず,名前で識別する方法もURIにはある。これをURN(Uniform Resource Name)という。URI=URL+URNという理解でだいたい正解”。

 こういう内容を情報化研究会ホームページの記事に書いたところ,会員のHさんから次のような丁寧なメールを頂いた。

 “SIPサーバを作ったときにRFCをざっと読んだのですが,URIに2つの意味があって,最初私も混乱していました。URIは一般的には,昔URLだったものを厳密に記述方法を規定したもので,URLの上位に位置づく概念といえます。

 しかし,一方でRequest-URIという概念もあります。これはSIPメッセージのあるフィールドのことを指します。 概念の大きさでは, Request-URI<SIP-URL<URI です。Request-URIはSIP-URLの規則(RFC2543の図3)に従って記述されていなければなりません。それ以前に,SIP-URLはURI規則(RFC2396)に従ったアルファベット文字を使わなければなりません”

 Hさんは優秀なネットワーク・マネージャであると同時に,優秀なプログラマでもあるという稀有な人材だ。いただいたメールは厳密で正確なのだろうが,残念ながら筆者はこのメールでは「わかったつもり」になれない。あまり厳密でなくてもいいから,もう少しアナログに,私の好きな言い方だと“文学的”に説明してもらえないものだろうかと思ってしまう。人の眼に鳥の眼と蟻の眼があるように,思考回路にはやはりディジタルとアナログがあるようだ。

 と,こんなことを書いてURIとURLの違いを正確に理解できなくても平気でいられるのがアナログ人間の強さである。わからないことなんて,山ほどあるさ。

比叡山の昼寝

 楽しい京都の話にもどる。二日目は夏でもすずしい比叡山延暦寺へ行った。琵琶湖畔の坂本からケーブルカーで登っていくと,よく晴れた空のおかげできれいな青い湖面が見えた。頂上は高度があって木陰も多いため,地上より5度ほど涼しく感じられた。

 まずは根本中堂へお参り。「一隅を照らす者を国宝という」という意味の額が何カ所かに掲げられている。誰かがこの言葉を座右の銘として書いていたが,延暦寺が起源だと初めて知った。実は延暦寺には1970年に中学の修学旅行で来ているのだが,この言葉の記憶はまったく残っていなかった。

 根本中堂から5分ほどのところにある会館の広間で精進料理の昼食をとった。ビールとおいしい料理とすずしい部屋。誰からともなく昼寝をはじめ,小一時間寝た。紅一点の若い女性までオヤジたちのいびきに誘われて寝入っていたのが微笑ましかった。

(松田 次博)

松田 次博:情報化研究会主宰。1984年より,情報通信に携わる人の勉強と交流を目的とした情報化研究会(www2j.biglobe.ne.jp/~ClearTK/)を主宰。著書にVoIP構築の定番となっている技術書「企業内データ・音声統合網の構築技法」や「フレームリレー・セルリレーによる企業ネットワークの新構築技法」などがある。NTTデータ勤務。趣味は,読書(エッセイ主体)と旅行。