オープンソース分野で活躍する技術者は,どのようにしてスキルを身につけたのだろうか。オープンソースのWindows互換サーバー・ソフトウエアSambaの本家開発チーム「Samba Team」の一員である高橋基信氏。同氏は,米Microsoftが高い技術と実績を持つ技術者に授与するMost Valuable Professionals(MVP)にも選ばれている。しかし,意外にもコンピュータを本格的に使い始めたのは大学3年生からという。同氏の技術者としての成長の軌跡を聞いた(本記事は,日経システム構築 2001年9月号の「プロフェッショナル仕事を語る」を再構成したものです)。

高橋基信氏

専攻は哲学科,コンピュータを本格的に使い出したのは大学3年から

 こんな活動をしているので意外に思われるかもしれませんが,コンピュータとの付き合いは浅く,本格的に使い始めたのは大学3年生からです。

 大学での専攻は哲学科で,コンピュータとは無縁の学部でした。何か専門的な技能を身につけたいという思いもあって,当時所属していた早稲田大学混声合唱団の会計になったのを機に,理工学部のコンピュータに詳しい後輩にいろいろ教えてもらったのが始まりです。おかげである程度自信を持てるレベルの知識を身につけることができ,NTTデータ通信に就職すると,希望だった研究開発部門に配属になりました。

 今もそうですが,周りは理系の,それもほとんどは大学院卒の人ばかりです。かなりプレッシャがあり,まずは自分の得意分野を作ろうと思いました。UNIXは学生時代から使い込んでいる人に追い付けそうにないし,PCネットワークで全盛だったNetWareもエキスパートはたくさんいる。そこで当時出始めたばかりのWindows NTをやっている部署を希望しました。

 ところが2年目に,突然UNIX上でのマルチスレッド・プログラムの試験プロジェクトに携わることになってしまいました。実はUNIXに触ったのはこの時が初めてだったんですが,4年ほど仕事の中でUNIXを日常的に利用していくうちに,すっかりUNIX文化に感化されてしまい,UNIXの技術を身に付けようと頑張るようになりました。

 また,UNIXを使っていると自然とネットワークにも興味が湧いてきて,別のビルにいるメンバーとプロジェクトを進めていくために,当時はやりのISDNルーターの設定とかも,頼んでやらせてもらいました。独力でいろいろやる中で,ネットワーク分野の知識も身に付けることができました。

UNIXをバックボーンとしながら,
Windowsの技術も習得したことが世界を広げた

 そのころ,UNIX文化のLAN管理者とWindows文化のLAN管理者の間では,何かにつけて対立がありました。UNIX文化の人は「Windowsはアーキテクチャが洗練されていないし不安定だ」などとWindowsを毛嫌いしますし,Windows文化の人も「UNIXは古いから駄目だ」とばかり言っている。でも,実はほとんどの場合,両方のOSを深く分かって言っているわけではない。これでは水掛け論にしかなりません。

 心情的には私もUNIX派だったのですが,水掛け論には賛成できません。冷静になってWindowsの良いところも認めた上で,Windowsのどこが悪いのか,UNIXのどこが良いのかをWindows文化の人にも分かるように説明しなければいけない。そんな思いからWindowsの技術も深く習得しようと心掛けました。

対立分野や関連分野を知れば技術の厚みが出てくる
得意分野で情報発信すれば,さらに情報は集まる

 UNIXとWindowsとの両方をやっていくのは,今考えても大変でした。反動でなおざりになってしまった分野も正直ありました。しかし,UNIXとWindowsという,ある意味相反する技術をやった経験は大きかった。関連してネットワーク技術の習得にも取り組んだので,相乗効果で技術の幅がどんどん広がっていったと思います。

 自信を持てる分野があると,その後の仕事も変わってきます。実際,業務内容は得意分野を生かすものになっていきましたし,後にSambaにかかわるきっかけにもなりました。

 自他ともに認めるアピール・ポイントができたことが,さらに知識の幅を広げてくれました。周りの人が自分に質問をしたりコメントを求めたりしてくるようになってきたので,最初は勉強だと思って答えていたんです。でも,すぐに普段からこうして情報をgiveすることで,私も相手からその人の得意分野の情報をtakeできるようになることに気付きました。だから,それからは積極的に質問に答えるようになったんです。

 そうこうしているうちに質問に答えるという業務自体が非常に自分にあっているような気がして,SI部隊を後方から技術サポートする現在の部署に移りました。

個人として仕事を引き受けたことが転機になった

 しばらくは普通にサポート業務をやっていたのですが,1999年に,別の部署経由で日経Windows NT誌(当時)の原稿執筆依頼がきました。かなり悩みましたが,最終的には引き受けました。実際に始めてみると,今までいかに会社に甘えていたかが分かりましたね。個人として引き受けましたから,〆切を守るのも自分だけの問題です。また,何かあったら自分が責任を持って対処しなければならない。

 でも,逆に「やる」と宣言して退路を断ってしまえば,それまではなかなか期日内にできなかった検証などでも,何とか仕上げられる,ということも分かりました。もちろん不可能なことを引き受けてはいけませんが。

 この,個人として責任を引き受ける経験をしたことで,仕事を進める上での意識が大きく変わったと思います。会社を離れても個人として通用する「プロフェッショナル」でありたい,ということを強く意識するようになりました。

個人として責任を持てる仕事をする
「あと一つ」の積み重ねが将来の大きな差になる

 そんなころにSambaの日本語化が始まり,コミュニティに参加することになりました。ある意味,「プロフェッショナル」を意識したことが,この個人としての活動につながったのかもしれません。

 一方では,多くの人に喜んでもらいたいという気持ちが昔からありました。オープン・ソースへかかわるようになったきっかけは人それぞれだと思いますが,自分の場合は自分の適性と,何をやれば一番喜ばれるかを考慮した結果がSambaだったんです。

 SambaはUNIX上でWindowsのネットワーク機能を動かすため,UNIXとWindows両方の技術が欠かせません。だから自分の力を最大限に生かして,人に喜んでもらえることができると思ったのです。

 日本Sambaユーザ会は,Sambaの普及のため,Samba日本語版の開発を中心とした活動を行っています。でも,実際の開発は活動全体の一部に過ぎません。もちろんいいものを開発しなければなりませんが,存在を知ってもらうための宣伝や,質問に答えたり,資料を整えたりするサポートも重要です。開発,宣伝,サポートの3つのバランスをとるために,自分自身はあえてサポートなどの,いわば「雑用」を中心に活動しているつもりです。

 皆さんに協力をお願いすると,「Sambaのソース・コードを修正したり,検証したりする技術力がない」と言われることが多いのですが,イベントの企画やドキュメントの整備など,できることはいくらでもあります。そういった,格好がいいとはいえない裏方の仕事があってこそ,開発の成果が光るんです。

 結局重要なのは,自発的に,個人として責任を持って動けるかどうか,です。指示がなければ動けないのでは,指示したりとりまとめや調整を行ったりするための労力が大変になってしまいます。皆が自分ができることは何かを考え,責任を持って行う。この姿勢が,個人の活動でも仕事でも大切ではないでしょうか。

Samba本家開発チームに参加

 2001年7月,Samba開発のコア・メンバーAndrew Tridgell氏から招かれ開発チームに参加しました。日本Sambaユーザ会には何人かの優秀な技術者がいます。ただ,私が一番動きやすい状況にあったこともあって,開発チームに入ることをお引き受けしました。

 貢献が認められたうれしさよりも,責任の重大さに身が引き締まる思いです。特にSambaに関しては,自分の不用意な発言が,そのまま真実として伝わってしまう。だから絶対に誤ったことは言えない。万人向けの方法ではないですが,そうやって自分自身でプレッシャをかけることで,日ごと頑張っています。

 最近は常に時間不足で,毎日朝4時ごろまで睡魔と戦いながら作業することが多くなっています。朝3時を過ぎると,いつも「もう寝ようか」という心の声と闘いながらの毎日です。

 そういう時に考えるのが,「+1」という言葉ですね。今日,ちょっと頑張れば,あと一つ作業できる。ここで「あと一つ」の作業をするかしないかが,1カ月後,1年後に大きな違いになって現れてくると思って,頑張るんです。で,一つ作業を終えたら,またもう一つと…。

 最初からたくさんやるんだと思うと,萎えちゃう場合が多いんですが,「あと一つ」の繰り返しだと,意外に頑張れたりするんですよね。いろいろな場面で,もう限界かなと思うことが多くなっていますが,常に「+1」の気持ちで対処していこうと思っています。