つい先日のThe New York Times紙に,「大学のコンピュータ系学科の志願者数が激減している」という記事が掲載されていた。「IT不況の中,当たり前」とも言えるが,落ち込み方が尋常ではない。優れた理数系学科を抱えるUC Berkeley(University of California, Berkeley)では,コンピュータのクラスを受講する学生数が,最盛期(2000年)の700人から,今年は350人にまで(50%)急落したという。Carnegie Melonでは同じく36%,Virginia Techでは40%,MIT(Massachusetts Institute of Technology)でも20%減少した。

 学生というのは,ちゃっかりしているようで,いつの時代でも浅はかな選択をしがちだ(もちろん私もそうだった)。IT最盛期の2000年にコンピュータを専攻した大量の学生は,ブームが冷め切った今ごろになって狭まった就職口に殺到せざるをえない。逆にIT人気が底を打った今,それを選ぶ学生には,数年後に広い門戸が開かれるかもしれない。そう考えてもおかしくはないのに,それをする人は少ない。

 「みんなが行く方向に行く」というのは,恐らく万国共通の現象なのだろう。先日,フランスのニュース番組を見ていたら,「今年の大学卒業生が(失業の心配がない)国家・地方公務員に殺到している」と報じていた。まるで日本と同じではないか。

 人が職業を選ぶとき,大きく2種類のやり方に分かれる。「自分の才能」を中心に考えるか,「その時の経済・社会動向」を観察して決めるか,である。もちろん世の中には,「その日の食いぶちを稼ぐのに精一杯,職種なんか何でもいい」という人はたくさんいるが,まあ大学を卒業したばかりの人なら,いくら不況といえども,ある程度の選択肢はあるだろう。

 ちゃんとした統計などあるはずがないので全くの推量だが,多くの人は後者に分類されるのではなかろうか。「この産業分野は将来性がありそうだ」と自分なりに判断して,そっちの方向に進むというのが,ごく常識的な進路選択だろう。その予想が往々にして外れ,一流大学の学生ほど未来の構造不況業種に集まるというのは,不幸なことだ。打算的な選択よりも,自分の内側を見つめなおすことが必要なのに。それが許される機会は,そう何回も訪れはしないのだ。

「I got a job」と「就職」の違い

 ところで,日本での進路選択はどうなっているのだろう。私は9年以上をアメリカで過ごしたが,アメリカには日本の「就職」に該当する単語は無いような気がする。私の知識不足なのかもしれないが,大抵は「I got a job(仕事を見つけた)」という言い方で済ませる。「とりあえず,当面の稼ぎ口を見つけた。もっと良い,あるいは自分に向いた仕事があれば,ちゅうちょ無くそっちに移る」というニュアンスがある。試行錯誤を繰り返しながら,自分探しの余地が残されているのだ。

 これとは対照的に日本の「就職」という言葉には,まさしく「組織に組み込まれる」という含みがあって,「一度入ったらそう簡単には抜けられない」という暗黙のルールを匂わせる。「お江戸」俸禄社会の延長である。

 こういう道から一旦外れたら,あとは「フリーター」という変な言葉を使って徹底的に逃げざるを得ない。「組織への完全服従」(何々藩の武士)か「完全離脱」(浪人)か,両極端である。日本の労働市場も徐々に変わってきているとは聞くが,9年ぶりに帰国してみると,どうもそうとは思えない。変わったとすれば,むしろ悪い方向に変わっている。就職難で立場の弱くなった従業員に対し,企業は「より一層の帰属意識と滅私奉公」を求めているような気がする。

 通常,日本では,職種は従業員が選ぶのではなく,会社が決める(大企業ほど,この傾向が強い)。企業の一員になる以上,従業員の能力をどう活かすか――生殺与奪の権利は組織が握るのである。その際,大学時代の専攻は当然重視するだろうが,しかしエキスパートとして採用するわけではない。

 「日本の大学生が真剣に勉強しないのはこのためだ」と言われるが,当たらずと言えども遠からずだろう。考えようによって専攻に対する柔軟性もあるわけだが,それを補って余りある特徴がない限り,入社以降はもはや企業と一体化する以外の道は閉ざされてしまう。「アメリカの大学生も日本と同じでちゃっかりしてるなあ」と,のんびり海の向こうをながめている場合でもなさそうである。