米国の最高裁が,「著作権の有効期間の無期限延長を事実上,許可する」裁定を下した。

 米連邦議会は,1998年に「Copyright Term Extension Act(CTEA:著作権期間延長法)」を成立させている。それ以前,映画や小説などの著作権は,個人所有者に対し「その死後50年間」,企業所有者に対し「作品誕生後75年」の有効期間が認められていた。CTEAはこれを20年延長し,それぞれの有効期間を70年,95年とする法律だ。

 この改正法の妥当性を争う裁判は,例えばミッキーマウスのように,大昔に誕生したキャラクターの著作権が,一体いつまでディズニーのような巨大企業によって独占されるのか,という点で,広く人々の関心を集めていた(関連記事)。

 一連の裁判を振り返ると,まずCTEAが可決された直後,一部のアマチュア発行人らが「CTEAは違憲である(合衆国憲法に反する)」という訴えを起こした。下級裁では彼らの訴えは退けられ,最終的な判断は最高裁に委ねられたが,結局,1月15日に最高裁も「CTEAは合憲である」という判決を下した。つまり「著作権の延長」を許可したのである。

原告側は「CTEAは事実上,著作権を無期限延長しており違憲」と主張

 これまでアマチュア発行人らを率いて,事実上,原告側のリーダーとなったのが,Stanford University Law SchoolのLawrence Lessig教授である。彼らの訴えをまとめると,次のようになる。

 「CTEAは著作権を20年延長するというが,過去の経緯を振り返ると,それは事実上の無期限延長を意味する。合衆国憲法は著作権の『限定的な』延長は認めているが,無期限の延長は認めていない。従ってCTEAは違憲である」

 実際,過去の経緯を振り返ると,彼らの主張にはうなずけるものがある。米国初の著作権法が生まれた時,その有効期間はわずか14年だった。それが切れそうになる度に議会は法律を改正して延長し,1950年以降は実に11回も延長している。

 しかも最初のころは2年,3年といった「こま切れ延長」だったのに,後になるほど19年,20年と「まとまった延長」になっている。これを見る限り本当にきりがなく,「事実上の無期限延長である」というLessig教授らの指摘は,的を射ていると思えるのである。

米最高裁が「合憲」と判決を下した背景

 ではなぜ,米最高裁はこれを「合憲である」と判断したのだろうか? 判決文には主な理由として,次のような見解を示している。

 「連邦議会による有効期間の度重なる延長が『無期限の延長である』という主張は,第三者による『推測』に過ぎない。合衆国憲法は連邦議会に対し,著作権に関する広範囲な裁量権を与えており,裁判所はそれに対し極めて限られた役割しか果たせない。従って単なる『推測』に基づいて,CTEAを違憲と見ることはできない」

 要するに自主的な判定を放棄して,事実上の決定権を議会に委ねてしまったのである。これは考えてみれば無責任な理屈で,こんなことなら裁判所など必要なくなってしまう。

 米最高裁がこうした判決を下した背後では,実は米国を取り巻く産業情勢を考慮した政治的判断が働いたと見られている。すなわち,現在の米国産業を支える最大の財産は,ハリウッドや音楽業界が蓄える膨大な知的創作物である。アメリカから世界各国に輸出される,これらの商品は,慢性的な貿易赤字に苦しむ同国に,貴重な外貨をもたらしてくれる。従って最高裁は「これらの著作権を,みすみす失ってなるものか」と考えた,という見方である。

「著作権が必要以上に強い拘束力を持つことは,人類全体の公益に反する」

 こうした国益を重視する狭量な考え方に対し,Lessig教授は意義を唱える。それはインターネットが広く普及した現代において,著作権が必要以上に強い拘束力をもつことは,「人類全体の公益」に反するという考え方に基づいている。

 すなわち,書物が中心であった古き時代には,誰かの本を買って読んで,それを友達に見せて,譲って,時には売ってという,いわば「情報の共有」は,自由に行えた。つまり著作権には抵触しなかったのである。ところがサイバー・スペース上の情報共有は,知的創作物のコピーとなる場合が多く,これは「著作権法違反」になってしまう。

 しかし新たな時代に,あまりにも強く著作権を保護し過ぎることは,人類全体の創造力とインターネットが持つ豊かな可能性を侵害してしまう,とLessig教授は主張する。それは噛み砕いて言うと,こういうことだ。

 「小説,映画,音楽,アニメ,つまりあらゆる種類の知的創作物は,全くのゼロから生み出されるものは,極めて少ない。ほとんどの場合,過去の知的遺産を「創造的に批判する」ことによって,より高い次元の作品に到達するのである。ところがディズニーのような巨大メディアは,著作権を武器にして,この批判的創造力を根元から殺そうとしている。
 すなわち,仮に若い作家がメディア企業の知的資産(小説,映画,音楽などの作品)を土台にして何かを創作しようとするなら,彼はこの企業から許可を貰わねばならない。この時,メディア企業は見知らぬ作家に使用許可を出さないかもしれないし,あるいは使用を許したにしても,オリジナルの作品を痛烈に批判するような使い方は許さないだろう。こうなると,主流カルチャーに対する批判性が根こそぎ奪われて,文化の多様性は喪失し,文明は衰退に向かう」

 Lessig教授はこのように見ている。彼の主張には賛否両論があろう。メディア企業にしてみれば,「サイバー時代の情報共有が,知的財産のコピーにつながってしまう恐れがあるからこそ,我々は著作権を強化したいのだ」という理屈になる。

 だが,既に現時点でさえ,世界のポップ・カルチャーはごく少数のメディア・コングロマリットに支配され,多様性を失いかけている。このような状況を見るにつけ,Lessig教授の投げかけた問題提起を,重く受け止めざるをえないのである。