私たちが長年親しんできた昔話や童話,有名なアニメのキャラクタ,あるいは既に古典となった小説や映画などは,一体誰の「所有物」となるのだろうか?事実上,「人類の共有財産」と化した知的創作物の「著作権」を争う裁判が,今月9日,連邦最高裁で始まった。

 つい数年前まで米国の著作権法は,小説や音楽など個人による創作物の著作権は作者の死後「50年間」,また映画のような企業による創作物の著作権は,作品誕生後「75年間」有効である,と定めていた。

 逆に言えば,その期限を過ぎれば著作権は自然消滅して,誰でも自由にこれら古(いにしえ)の創作物を出版したり,自分の作品に取り入れて使うことができた。法律の専門用語では,このように著作権の切れた作品を,「Public Domain(公共領域)に入った作品」と呼ぶ。

 ところが1998年に米連邦議会は,個人・企業両方の著作権の寿命を20年延ばし,それぞれ「70年」と「95年」にする新法,「1998 Copyright Term Extension Act(CTEA)」を成立させた。これに対し,Stanford大学Law SchoolのLawrence Lessig教授を中心にした学者や市民団体などが,猛烈な反対運動を開始した。

メディア・コングロマリットにとってキャラクタたちの著作権は死活問題

 たかが「著作権の有効期間を延長する法律」が,なぜそれほどの大騒ぎになるのか?腑に落ちない読者も多かろう。しかし,この新法(CTEA)が生まれた背景や,インターネットが普及した現代という時代性を考慮すると,意外に重要な意味を帯びて来るのだ。

 まずCTEAが連邦議会で可決されたのは,ディズニーを中心にした米エンターテイメント業界の激しいロビー活動(政界への働きかけ)による。ディズニーのような,いわゆるメディア・コングロマリットは,日ごろから米国の政治家と太いパイプを築いている。培った政治力を「ここぞ」とばかりに傾けて,CTEAを成立させたのだ。

 天下のディズニーがなぜ,「著作権を20年延ばす」ことで血眼になるのか?それは「ミッキーマウス」や「ドナルドダック」など,ディズニーの屋台骨を支えるキャラクタたちの著作権が,もうすぐ切れてしまうからだ。彼らが最初に登場した映画,「Steamboat Willie」が製作されたのは1928年。もし著作権の有効期間が75年間のままなら,ミッキーマウスたちは来年Public Domainに入り,「人類共有の財産」と化してしまうのだ。

 これがどういうことを意味するかというと,たとえばディズニーとは全く無関係の日本企業が「大阪ディズニーランド」のような施設を無断で作って,その入り口でミッキーマウスが「さあ,いらっしゃい。東京より安いで!」とやっても構わないのである(厳密に言えば,「ディズニーランド」という名称は使えないだろうが,ミッキーマウスの方はそのものズバリを実名で導入できるはずだ)。

 テーマパークばかりではない。コミック,映画,ビデオからDVDまで,あらゆるメディアにおいて,ディズニー以外の企業や,作家,漫画家,写真家,果ては素人の愛好家までが,自由にディズニーのキャラクタを自らの作品に取り込むことができる。そして,それによって「お金を儲けても」構わないのだ。

 もしこんなことが本当に起きたら,ディズニーはとんでもない状況に陥る。まず本業からの実収入が激減するし,さらに株価が急落して,買収されるか倒産してしまうことも考えられる。こう見てくると,「著作権の時間切れ」はディズニーにとって死活問題だったのだ。

 またディズニー以外のメディア・コングロマリットにしても,小説や映画など様々な知的創作物を抱えているわけだから,やはり,それらの著作権が切れて,万人の手に渡るのは都合が悪い。結局,エンターテイメント業界全体の利害関係が一致して,CTEA(著作権の延長)へと結び付いたのである。

「白雪姫のような“人類共通の財産”が新たな創作活動を生む」と反対派

 ではLessig教授を始めとする一部の法律家や市民団体が,このCTEAに反対するのはなぜか?それは企業の利益追求のトバッチリを受けて,インターネット時代の新たな創作活動が阻害されるのを懸念してのこと,とされる。

 小説から映画まで,あらゆる種類の知的創作物において,「全くのゼロ」から誕生する物はむしろ少ない。多くの作品は,多かれ少なかれ神話や古典,名も知れぬ伝承など過去の知的遺産を下敷きに創作される。それらには著作権や知的所有権の拘束は課せられていない。だから作者は何の気兼ねもなく,こうした過去の貴重な財産を使って,新たに素晴らしい作品を紡ぎ上げることができた。

 特にインターネットによる,いわゆるpeer-to-peerの情報交換ができるようになった現代では,数万,数十万,ひょっとしたら数百万の人々が,過去の知的遺産を自由自在に交換できる。人類全体が協力して新たな作品を編み出すという,とてつもないスケールの芸術活動が可能になってきた。その結果,昔なら想像もつかない素晴らしい作品が生まれるかもしれない。

 こうした願ってもない環境が整いつつあるのに,CTEAによる「著作権の延命活動」は,その流れに逆行する。つまり本来なら,そろそろ「人類共通の財産」となるはずの作品群まで囲い込んで,万人の手の届かないものにしてしまう。これによって,新たな創作活動の芽が摘まれる,というのがLessig教授ら反対派の主張である。

 また自らの手でCTEAを成立させたディズニー自身,「白雪姫」のような「人類の共通遺産」を何度も焼き直して金を儲けているのだから,「自分の作ったキャラクタだけは,いつまで経っても他人に使わせない」というのは筋が通らない。このように見ればCETA反対派の方に分があるように思われる。

劣勢に立たされるCTEA反対派

 ところがCTEA反対派は,これまで圧倒的な劣勢に立たされている。現在の法廷闘争は,もともとCTEA成立直後にコンピュータ・プログラマのEric Eldred氏が起こした民事訴訟に端を発している。

 当時,Eldred氏は著作権の有効期限が切れた「過去の詩」などを集め,自らのホームページ上で公開していた。金儲けではなく,「みんなで楽しもう」という一種の趣味である。しかしCTEAが成立してしまったために,失効していたはずの著作権が突如息を吹き返し,Eldred氏はこれらの詩をHPから削除することを強いられた。これに憤ったEldred氏は連邦地裁に「CTEA撤廃」を訴え,自らも司法資格を持つLessig教授が同氏の弁護士を買って出たのである。

 裁判の結果は一審,それに続く控訴審とも,Eldred氏すなわちCTEA反対派の敗訴。最後の頼みとなる最高裁も,おそらくEldred氏の上告を棄却すると見られていた。ところが予想に反して,今回,最高裁は上告を取り上げたのである。「とにかく考えるだけなら,もう一度考えて見よう」という姿勢だ。

 これまでCTEA反対派が劣勢に置かれて来たのは,米国の憲法が連邦議会に強い権力を与えているためだ。合衆国憲法は,芸術家や科学者の創作意欲を鼓舞するため,議会が「知的所有権を何度か(limited times)発行し直す」ことを認めている。これに従って連邦地裁や控訴栽の判事は,「有効期間が切れそうな著作権に,もう20年を追加する新法」を「合憲」とみなしたのだ。

「limited times」の解釈が最高裁での争点に

 今後,最高裁で争点となるのは,この「limited times」の解釈である。恐らく今から20年後に,ディズニーをはじめとするエンターテイメント業界は再度,著作権延長を求めるだろう。それが10年になるか20年になるか分からないが,そうやって毎度毎度,細切れに延長して行けば,「limited times(有限回数)」はいつか「unlimited times(無限)」になってしまう。

 実際,1790年に米国初の著作権法が生まれた時,その有効期間はわずか14年だった。それが何度も延長されて,95年の長きに渡るまでになったのだから,現在の流れは,まさに「無限の延長」へと向かっているのだ。

 仮に最高裁が下級裁の判決を支持した場合,これから生まれる知的創作物は事実上,「永遠の著作権」を持つことになる。神話が育まれた大らかな古代とは異なり,せちがらい現代では,ありとあらゆる団体や個人が,著作権を主張するだろう。それが永久に保障されるなら,これからの米国における創作活動は知的所有権にがんじがらめにされて,身動きが取れなくなる。

 9日に行われた最初の審理では,最高裁の判事らは長い時間をかけて,原告・被告双方の主張を聞き取り,また数多くの質問を発した。その言葉の端々から判断して,「limited times」に対する判事らの解釈は,今のところ割れているようだ。盤石に思われたCTEAが覆される可能性も残されているのだ。

 さて,ミッキーマウスは一体,誰のものになるのだろうか。