日本では8月5日から,住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)が稼働する予定だが,これに対する市民団体やマスコミの反対運動が活発化している。「プライバシ(個人情報)の漏えいや,政府による国民監視体制につながる」というのが,反対の主な理由だ。諸外国では,どうなっているのだろうか。以下では,米国を中心に世界の事情を紹介する。

 その準備として,いわゆる「住基ネット」と呼ばれるシステムが,世界的にどう位置付けられるかを定義しておく必要がある。

 日本の「住基ネット」とは,「住民基本台帳にある氏名や生年月日,住所,性別などの個人情報をオンライン化する仕組みである。国民に11ケタの番号を付け,、住民基本台帳にある氏名や住所,性別,住民票コードなど,本人確認のための個人情報をネットワーク上で管理する。これにより,例えば住民票の取得などの行政手続きが,どの市町村からでも申請できるようになる」(日経ネットビジネスの記事より引用)。これは事実上の「国民総背番号制」であり,国際的には「National ID」と呼ばれる。

米国には「事実上のNational ID」が存在する

 米国には今のところ,公式のNational IDは存在しないが,2001年9月11日の同時多発テロ直後には,その導入を求める声が高まった。当時の事情は以前に本コラム(2001年11月5日)で紹介したので,それを参照されたい(記事へ)。その後,テロ騒動が鎮静化すると共に,National ID論争も下火になり,その実現の可能性は当分なくなった。

 しかし米国には「事実上の」National IDが,ずっと以前から存在する。Social Security Number(SSN:社会保障番号)と呼ばれるものだ。

 1936年に設けられた米国の社会保障制度はもともと,全国にあふれた失業者への,いわばセーフテイ・ネットとなることを目指していた。この制度はその後,徐々に形を変えて維持され,現在では退職者への年金(年金とは呼ばれず「高齢保険」と呼ばれるが,実態は同じ),高齢者や貧しい人たちへの医療補助金,さらには失業保険金などを支給している。

 こうした様々な「手当て」を一元管理するための,いわば背番号がSSNである。米国民のほぼ100%がSSNを持っており,これが無いと引退したり失業しても社会保障制度の恩恵にあずかることができない。また逆に働ける間は,米国民は全員,社会保障税を納める義務がある。自らが払った社会保障税の累積額は,全部自分のSSNのアカウントに記録されている。SSNはもちろん今では電子化(データベース化)されて,オンラインでアクセスできる。

 このようにSSNは元々,社会保障に使われた番号だが,その後,徐々に多方面の目的に応用されるようになり,National IDとしての性格を深めて行く。例えば米国人が銀行口座を開いたり,クレジット・カードを作ったりする際には,必ずSSNの提示を求められる。これが無いと,ほぼ絶対に口座は開けない(留学生などは例外)。クレジット・カードの利用記録は,すべてSSNを軸にして金融機関のデータベースに記録される。

 SSNはまた1961年の法律改正によって,「納税者番号」としても利用されることになった。毎年配布される確定申告用紙には,その最初の欄にSSNの記入欄がある。これ以外にも,様々な場面でSSNの提示を求められる。これが無いと,米国では満足に現代生活を送れない。従ってSSNは事実上のNational IDと見てよいのだ。

住基ネットとSSNの最大の違いは?

 実際,米国ではこれまで何度か,SSNを公式のNational IDに格上げする動きが生まれたが,そのたびに反対派の抵抗にあって潰された。「事実上のID」と「公式のID」のどこが違うかというと,現在のSSNは厳密にはIDになっていないのだ。

 SSNの基礎データは,氏名,生年月日,住所と郵便番号(と,その変更記録)である。指紋も本人写真も必要ない。これでは誰か別人が,あなたのSSNを手に入れて,あなたになりすますことは簡単である。昨年,盛り上がったNational ID論争では,支持者のLarry Ellison氏(米Oracle会長)らが「SSNに電子化した指紋や写真を追加して,National IDに格上げせよ」と主張した。これは今や,実現の可能性は無くなった。

 日本の「住基ネット」と米国のSSNの大きな違いは,「住基ネット」に掲載される住民票コードが,最終的に当人の「本籍」とリンクしていることだ。日本の本籍は,偽ることが非常に難しい。従って,住民票コードはほぼ百パーセント,「本人であることを確認するためのID」,あるいは「国民背番号」に成り得るのだ。

 米国には「本籍」はおろか「住民票」すら存在しない。従って真のIDを作るためには,どうしても「指紋」や「眼球の虹彩」など,本人であることを証明するための生体データが必要になる。これが日本と米国の大きな違いだが,この点を除けば「住基ネット」(住民票コード)とSSNは,事実上,同じ機能を果たすと見ていい。

SSNやクレジット・カード情報の漏えいは米国でも起きている

 日本の「住基ネット」反対派が,その主な理由とするのは,「プライバシの漏えい」である。今はいいが,いずれは「住民票コード」つまり「国民背番号」を軸に,クレジット・カードの使用記録など様々な個人情報が蓄積され,それがネットワークから漏えいし,悪用されるという懸念である。

 これは米国のSSNという先例を見ると,かなり的を射ている。米国のプライバシ擁護団体「Electronic Privacy Information Center(EPIC)」によれば,クレジット・カード会社をはじめとした米国の金融機関は,成人人口の約90%のSSNを保持している。また,これを軸に作成したクレジット・データなど消費者情報は,消費者の断り無しに勝手に売買されており,いわば無法状態となっている,という。

 私がクレジット・カード会社に電話して上記の点を確かめると,電話に出たカスタマー・サポート係は「全くその通りだ」とあっさり認めた。もっと面白かったのは,話が長引くうちに,この係の女性が「私も以前,SSNとクレジット・カード情報を知らないうちに盗まれて,困ったことがある。でも最終的には,盗んだ悪党が私でないことを証明できたので,実害はなかった」と,向こうから話し出したことだ。

 クレジット・カード会社の社員が自ら,こんな話を打ち明けるとは・・・。あまりの開けっぴろげな態度にあきれたが,実は彼らは「この程度のトラブルは,当然起こり得ること」と受けとめ,気にしていないのである。

 米国民は,SSNが事実上の背番号として使われていること,それを中心に様々な個人データが収集されていることを,百も承知である。また,それが時に悪用される危険性があることも知っている。

それでもSSNを廃止せよ,という声が聞かれない理由

 しかしながら「SSNを廃止せよ」という声は全く聞かれない。それにはいくつか理由があるが,一つにはSSNが導入された時期である。食うや食わずの1936年には,「プライバシ」など,どうでも良いことだったのだ。当時は,そもそも「プライバシ」という概念すら存在しなかったはずだ。政府のお陰で「パン」にありつくことができるなら,国民は喜んで「背番号」を受け入れたのである。この制度が今日まで引き継がれたので,SSNは現在の米国民にとって既定事実になってしまったのだ。

 別の理由は,「SSNが無いと,社会システムが円滑に機能しない」からである。納税一つを例にとっても,毎年2億人以上が確定申告する米国では,仮にSSNのような国民背番号が無いとすれば,日本の国税局にあたるIRS(内国歳入庁)は,とても対処できないであろう。良くも悪くもSSNが社会システムに深く組みこまれてしまった以上,もう取り外すことはできないのだ。

 最後の理由は,「消費者データ(プライバシ)の漏えいは,必ずしもSSNのせいではない」ということだ。

 金融機関がSSNを中心に消費者データを集めているのは事実だ。また,それが時に盗まれることも事実である。しかしSSNがあろうと無かろうと,金融機関は消費者データを集めるし,それらは常に盗難や不正アクセスの危機にさらされるだろう。SSN(国民背番号)とデータ漏えいの間には,実はそれほどの関連性は無いのである。

 仮にSSNが存在しなかったとすれば,米国の金融機関は別の背番号を考案して,それを軸に消費者データを集めるだろう。つまり政府が国民背番号を導入しようとしまいと,ネットワーク上のデータ漏洩には無関係である。

問題は政府による監視体制よりも国民相互の監視体制が生まれることか

 同じことは,日本の住基ネットについても言えるはずだ。住基ネット上のデータは,今のままでは盗んでも金にならない。これが価値を持ってくるのは,住民票コード(背番号)を軸に様々な消費者データが追加された時だが,これらは既に日本でも企業が収集済みで,やはり米国同様,盗難や不正アクセスの危機にさらされている。今から住民票コードを導入しようとしまいと,「個人データ(プライバシ)の漏えい」ということに関しては,大差は無いはずだ。どっちにしても,起きることは起きるということだ。

 他に住基ネット(背番号制)反対論の論拠には,「政府による監視体制に結び付く」という懸念もある。しかし,これは取り越し苦労である。そんなことは起きない。政府が,市井の人々の平凡な生活を監視したところで何になろう。「SSNという背番号によって政府に監視されている」などと心配する米国人は,ほとんどいない。騒いでいるのは,EPICのような特殊団体だけである。

 これからのネットワーク社会では,政府による監視よりも,国民相互の監視体制が生まれるとの見方もある。

 7月25日のニューヨーク・タイムズに掲載された「Net Users Try to Elude the Google Grasp」という記事によれば,Web上のサーチ・エンジンの発達によって,知らない間に自分のプライバシが他人に知られている。これを嫌う米国人たちは,何とかして自分の情報をWebから削除しようとするが,なかなか消し切れないので困っているそうだ。政府が何をしようと,監視社会というのは既に存在するのかもしれない。

 最後に各国のID事情を紹介しておくと,現在,欧州や東南アジア諸国を中心に,世界100カ国以上でNational IDが導入されている。これは米国のSSNと違い,公式のNational IDである。これ自体,特に珍しいものではないのだ。

 私は別に政府の肩をもつわけではないが,日本の「住基ネット」も,大金を費やして作ってしまった以上,使った方が得ではなかろうか。それを稼働させたからといって,大した問題は起きないはずだ。