米国では毎年この時期,「Electronic Entertainment Exhibition(E3)」開催に照準を合わせて,ビデオ・ゲーム関連の最新技術(商品)や様々な市場調査結果などが発表される(今年のE3は先週開催された)。そうした調査の一つ,NPD Groupの調査によれば,2001年のビデオ・ゲーム売り上げは94億ドル(ハード,ソフトの合計)と,前年比で43%も増加した。

 この結果,ここ数年,つばぜり合いの競争を演じてきた映画の興行収入(2001年は84億ドル)を追い抜き,エンターテイメントの王座を奪取した,という。

 単に売り上げが伸びているだけでなく,ゲームを楽しむ年齢層も広がっている。ゲーム愛好者の平均年齢は年を追うごとに高まり,昨今は30代,40代の成人がビデオ・ゲームに熱中する光景も珍しくない。社会の主力層に支持されるメディアという点から見ても,ビデオ・ゲームは確かにエンターテイメントの本流になりつつあるのだ。

「ゲームとは人間が最も欲するエンターテイメントだ」

 ビデオ・ゲーム産業が映画や音楽産業を追い抜くのは,時間の問題と見られていた。人類学者によれば,「ゲームとは人間が最も欲するエンターテイメントなのだ」という。「人類」を意味する専門用語としては,ラテン語の「Homo Sapience(賢い者)」が最も良く知られているが,これとは別に「Homo Ludens」という呼び方もある。この意味は「ゲームをする者」である。

 人間を他の動物から差別化する特徴は,以前なら「言語を操ること」や「道具を扱うこと」にあるとされた。しかし,その後の様々な実験により,チンパンジーなど他の高等動物も,ごく基本的な言語や道具を使えることが判明した。

 ただ一つ残された違いがある。それは「ゲームをすること」なのだという。

 動物は餌を取るために,彼らなりの知力を尽くして頑張る。しかしタラフク食って生存の欲求を満たせば,残りの時間はボーっとしたり,寝て過ごすだけである。ここが人間と違う。我々は基本的にそう長い時間,何もしないで時間を潰すことはできない。では何をするかというと,「ゲームをする」のである。

 言われてみると「確かにそうだな」という気がする。たとえばスポーツ好きの人なら,毎週末にゴルフやテニス,野球などに興じるが,これはまさしくゲームの典型である。マージャン,花札,ルーレット・・・博打好きの人間にとって,ゲームは人生そのものだ。あるいは,ごく普通の人でも旅行に行けば,駅の待合室で友達とトランプに興じたりする。とにかく人は,ちょっとでも時間があればゲームをして時間を潰す,というのは当たっている。

エンターテイメントがゲームに“回帰”する

 想像力を働かせてみるに,恐らく現在ほどマス・メディアが発達していなかった昔には,家族や友人同士で,今以上に色々なゲームをして時間を共有していたと思われる。エレクトロニクスの誕生と発達が,こうした状況を一変させた。

 蓄音機,映画,ラジオ,さらにはテレビなどの発明と普及によって,エンターテイメントの中心は「人が集まって遊ぶ素朴なゲーム」から「視聴覚を楽しませるだけの孤独なメディア」へと移行していったのだろう。

 しかし,その流れがここに来て再度,反転しようとしている。高度な情報技術と映画産業などの伝統的ポップ・アートは相互交流を深め,その結果生まれたのが,スーパー・リアルな映像を特徴とする最新ビデオ・ゲームである。

 この延長線上には,次世代ブロードバンドをフル活用する「オンライン・ビデオゲーム」がある。リアルな仮想空間上に,多くの人間が寄り集まって,ゲームを楽しむという図式だ。古代のゲームから出発したエンターテイメントが,曲がりくねった発達の道を経て,再びゲームに回帰しようとしているのだ。

ビデオ・ゲームで現実生活の欠落感を埋める?

 こうした中で,30代,40代の大人がビデオ・ゲームに興じるという現象も,確かにうなずけることだ。面白い人生の基本は,明快な目的とそれに到達する過程における他者との争い,協力,そこに生じる葛藤にあり,リアルなビデオ・ゲームはまさに,そうした要素を網羅しているからだ。

 ゲームのように勝敗がクッキリと分れる生き方は,我々の最も欲するものだが,人間は大抵,歳を取るにつれて,こうした明快な世界から何時の間にか締め出されている。

 たとえば中学生や高校生の時代は,「受験勉強」や「運動部の大会」など,血眼になって取り組まざるを得ない「ゲーム」に満たされていた。これらは苦しいけれど面白いのだ。

 しかし大人になって仕事に就くころから,こうした環境が一変する。才能と意欲と運があれば,引き続いて「競争」と「勝敗」のある面白い世界に残ることができる。だが,それ以外の多くの人達は,単調な繰り返し作業や事務手続きに追われる,退屈な仕事に従事せざるを得ない。

 現実と見紛うばかりの仮想空間に埋没し,そこでのゲームに興ずることは,真の現実生活の欠落感を埋め合わせてくれるからではなかろうか。