中国・九州地方の有力地銀である広島銀行と福岡銀行は今年1月、銀行業務を支える情報システムの共同化を完了した。システムのほぼ全体に及ぶ共同化プロジェクトは、構想から4年、開発費用180億円、開発工数1万3000人月という地銀の共同化ではかつて例がない規模となった。銀行のシステム統合・共同化プロジェクトが日本中で難航するなか、両行は頭取から現場の担当者までが一丸となって挑み、スケジュール通り稼働にこぎ着けた。(文中敬称略)

(大和田 尚孝)

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共同化構想の誕生(1999年2月~5月) 勘定系を巡り両行が決断
共同化検討(1999年5月~8月) 分裂の危機を乗り越える
詳細調査(1999年9月~12月) 両行の現場が一斉に反発
要件定義(2000年1月~6月) 半年間の格闘を続ける
設計・開発(2000年7月~2001年12月) 共同子会社設立で推進体制を一本化
福銀の先行稼働(2002年1月~12月) 「逆境」が結束を強める
全面稼働(2002年12月~2003年1月) 4年間の集大成、運命の大決断


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 広島銀行(広銀)頭取の高橋正は、広銀のとある営業店に置かれたATM(現金自動預け払い機)の前に立っていた。2003年1月4日、広銀と福岡銀行(福銀)が共同で利用する基幹系システムが稼働を迎えた初日のことだ。

表1●広島銀行と福岡銀行が今年1月に全面稼働させた共同システムの概要(一部本誌推定)

 高橋の取引は、何事もなく終了した。ATMが普段通り正常に動作することを、高橋がこれほどうれしく感じたのは初めてだった――。

 広銀と福銀はこの1月4日に、基幹系システムの共同利用を開始した。共同化の範囲は勘定系から情報系や対外系まで、銀行システムのほぼ全領域に及ぶ。総開発費用は180億円、開発工数は1万3000人月。独立した地銀同士がここまで本格的にシステムを共同化した例は過去にない。地銀64行のうち預金量で5位に位置する九州地方最大の福銀と、同9位に食い込む中国地方最大の広銀が挑んだ、地銀史上最大の共同化プロジェクトである(表1[拡大表示])。

 福銀が1999年春に具体的な共同化構想を立ち上げたことが、プロジェクトの皮切りとなった。それ以来、福銀と広銀は4年の年月をかけて着々とシステムの共同化を進めてきた。広銀は自行の勘定系システムを手放して、福銀の勘定系を使うことを決断。システム投資の削減や先進機能の実現を目指して、両行が一体となり、銀行主導で共同システムを作り上げた(図1[拡大表示])。

図1●システム共同化の狙い

 道のりは決して平坦ではなかった。システムを手放す立場の担当者の反抗、深夜まで続く激論、徹夜でのトラブル対応など、プロジェクトには常に「2行が共同で作業を進める」難しさが付きまとった。福岡と広島に分かれた開発拠点を新幹線で99回も往復した担当者もいた。福銀で共同化プロジェクトを牽引した、総合企画部システム統括室長の廣田喜大は、「これほどまでに、他行の担当者と協力しながらシステム開発プロジェクトを進めたのは初めて」と振り返る。

 だが、現場がどれだけやりあっても、両行の結束が乱れることはなかった。トップ同士ががっちりとスクラムを組み、その姿勢を終始貫き通したからだ。日本IBMの支援もあり、最終的に共同システムは稼働にこぎ着けた。

共同化構想の誕生 1999年2月~5月
勘定系を巡り両行が決断

 「地銀64行で勘定系を共同化するなんて、話がまとまるわけがありません」。1999年2月、福銀本店の会議室。当時総合企画部の部長代理を務めていた廣田は、経営層に熱っぽく語った。

 地銀64行が加盟する地方銀行協会(地銀協)では1年以上も前から、システム共同化を検討していた。しかし99年2月時点で、この話は破綻寸前だった。コスト削減という総論には各行が賛成したものの、各論がまとまらなかった。参加行が多く、利害関係が複雑に絡み合ったからだ。

 報告を受けた福銀の経営層は、廣田に対して「システム共同化は無理なのか」と問いただした。「そうではありません」と廣田は答えた。「銀行システムの現状に問題意識を持ち、共同化に積極的な銀行が数行集まれば、共同化でシステム・コストを必ず削減できます」。

 経営層に啖呵を切った以上、もはや共同化の話を引っ込めるわけにはいかない。廣田はさっそく、共同システムの検討に着手した。福銀のメイン・ベンダーである日本IBMにも、共同化の話を持ちかけた。

福銀が共同化構想を立ち上げる

 調査の結果、廣田は「福銀の勘定系システムは、共同システムの核に十分なり得る」と判断した。福銀の勘定系は1990年の稼働から当時で9年たっていたものの、24時間連続稼働を想定した設計になっているなど、地銀のなかでも先進的であったことが決め手になった。

 廣田は、福銀の勘定系を中核にした共同システムの構想を練り上げた。まずは九州地区の地銀に声をかけようと考えて、熊本県の肥後銀行と長崎県の十八銀行に共同化の話を持ちかけた。その結果、十八銀行から参加の回答を得た。

 システム共同化は、参加行が多いと話がまとまらなくなるが、少なすぎるとコスト効果が小さくなる。「2行では少ないな」。そう考えた廣田の頭に浮かんだのが、広銀だった。

 廣田は、広銀から地銀協の検討会に参加していたシステム部システム企画課長(当時)の吉井昭彦と面識があった。広銀もちょうどそのころ、銀行における情報システムのあり方を議論していた。「維持コストが膨らんでいく今のやり方のままでは、必ず限界が来る。先進技術を独自に追いかけていくにも、人的な負担が大きい。とはいえ、システム開発の手を抜くわけにはいかない」という福銀と同じ問題意識を、広銀も抱いていた。廣田は吉井に連絡を取り、99年4月30日に担当役員を通じて共同化の提案を正式に持ち込んだ。

 両行は、当時の頭取である福銀の佃亮二(現会長)と広銀の宇田誠(現会長)が、ともに地銀協の副会長を務めていたというつながりもあった。こうした事実が功を奏して、共同化の話はとんとん拍子で進行。広銀は5月12日に、共同化に参加する旨の回答を福銀に返した。提案を受けてから、わずか12日後のことだ。銀行業務の中核を担う情報システムにかかわる大決断にしては異例のスピードだった(表2[拡大表示])。

表2●広島銀行と福岡銀行のシステム共同化プロジェクトが合意に至るまでの経緯

共同化検討 1999年5月~8月
分裂の危機を乗り越える

 広銀の参加表明を経て、システム共同化プロジェクトは福銀、十八銀行、そして広銀の3行で動き出した。99年5月19日に、3行による打ち合わせを開始。各行から選りすぐりの精鋭が2~3人ずつ集まり、行内にも秘密裏に共同化の検討を進めた。日本IBMも技術支援の立場で検討に加わった。日本IBMからは、福銀を担当していて広銀の仕事も経験していた山元高司が出席した。

 「共同化でコストは具体的にどのくらい下がるのか」、「共同化の範囲はどこまで広げるか」、「サブシステムはどの銀行のものを採用するのか」。担当者は週に1回の頻度で集まり、議論を重ねた。

 しかし、細かい点で議論がなかなかまとまらない。当初の提案段階から、福銀の勘定系を残すことは決まっていた。それ以外の部分は、「共同化の範囲に含めるかどうか」から検討する必要があった。しかし、どの銀行のシステムを共同システムとして残すかは、各行ともそう簡単に判断できるものではない。「優れたシステムを残す」という方針があったものの、どれが最善なのかを判断するのは困難だった。

 そうしたなか、7月になって十八銀行が共同化プロジェクトからの辞退を申し出た。十八銀行が共同システムに求める機能が、他の2行と異なっていたのが理由である。福銀と広銀は、2行で共同化を進めることになった。


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