生涯勉強を続ける
 とかく派手な言動だけがクローズアップされがちな大川氏だが,非常な勉強家でもあった。70歳を超えても世界を飛び回って,さまざまな人に会って話を聞いていた。一時は,「シリコンバレーに家を買い,年に数カ月はそこに住む」と,冗談半分・本気半分で言い出したくらいである。この猛勉強の目的は,CSKグループの舵取りを誤らないためと,投資家としての自分の目利きを維持するための両方だった。

 投資家として大川氏が自分の最大の失敗として挙げていたのは,サン・マイクロシステムズに投資しなかったことである。「黎明期のサンに投資しないかという話を受け,サンの経営者に会うまでしたのに結局断ってしまった。あそこでどんと投資していたら,今頃左うちわやったのに」と大川氏はよく話していた。

 勉強のため,大川氏は若手経営者とよく付き合った。その代表格は,ソフトバンクの孫正義社長である。ソフトバンクが株式公開を果たした直後,大川氏に感想を聞いたことがある。「新しいことをよく勉強しとる。いろいろ教えてもらうことも多い。それと,若いのに腰がすごく低い。あれはたいしたものだ」と絶賛だった。ただし,最後に「(当時のソフトバンクの)株価はちょっと行き過ぎやな。うちのほうがしっかりしたビジネスをやっとるのに」と付け加えるなど,株価には厳しい目をしていた。

 自分があくなき勉強を続けただけに,株式公開をしてそれなりの資産を形成したことに満足してしまった同業他社の経営者については,非常にさめた目で見ていた。ある時,「東証でソフト会社のポストが作れるくらい,独立系の公開ソフト会社が増えましたね」と水を向けると,「みなさんベンツに乗れてよかったんやないか」とこれまた独特の表現で答えた。

 CSKが急成長をしている時に,そのビジネス手法を陰で批判するソフト会社の経営者は結構いた。こうした声に大川氏は馬耳東風で通した。だが,内心は,「CSKにSE単価を引き上げてもらい,自分はその恩恵を受けているにもかかわらず,CSKのことを批判する。といって何か新規の投資に乗り出すわけでもない。結局,ベンツを乗り回す程度の小金をためただけではないか」と思っていたのではないか。独立系ソフト会社の雄でありながら,大川社長はソフト業界から一歩引いており,業界団体の役職もほとんど受けなかった。

「後継は生え抜きから出す」
 大川氏のような創業経営者に必ずついて回る批判は,「後継者を育てられなかった」というものである。しかし,大川氏は後継者については相当以前から明確な方針を出していた。「1974年から始めた定期採用で入ってきた生え抜き社員にCSKグループを引っ張ってもらう。ただし,彼らが育つまで,外部からスカウトした経験者につないでもらう」というものだ。

 初めてインタビューした1987年のときから,この発言は一貫して変わらなかった。本人は一生,経営や投資を続けるつもりだったようだが,CSK社長というポストそのものにはさほど固執していなかったし,子息に継がせるという発想もなかった。

 1996年6月に,大川氏は野村証券出身者に,CSK社長の座を譲った。それからしばらくして,あるパーティで大川氏に会い,「CSK会長」という名刺をもらう機会があった。「わたしが記者をやっている間に,会長という名刺をもらうとは思いもよりませんでした」と言ったところ,「そうやろ,すぱっと譲ったやろ」とひどく喜んでいた。実際,社長を退いた直後から,社長点検には出席せず,もっぱらCSKグループ企業のセガの経営に注力するようになった。

 若手が育つまでスカウトした人材でつなぐという方針のもと,CSKは大量の役員をスカウトした。おそらく東証一部上場企業としては,役員のスカウトにもっとも積極的な企業だった。ただし,外部企業のスカウトでは,成果を上げたケースも,失敗したケースもあった。

 CSKに合わず,去っていった人物にも,それなりにきちんと対処した。あるとき,生え抜きの役員が,「ろくな仕事もしないで,辞めてからもCSKの悪口を言っているような人に退職金を払うな」と大川氏に直言したことがあった。大川氏は,「お前もあほやなあ。辞める人に払う金をしぶってみい,CSKはけちな会社だという評判がたって,だれもCSKなんか来やせんよ」と答えたという。

 一方,創業社長らしく,生え抜き社員,それも初期のころ入ってきた社員への思い入れは相当なものだった。記者は大川氏に会うたびに,「社長点検が厳しすぎて,人が育たないのでは」という質問をぶつけた。いつでも間髪入れず,「定期採用組は確実に成長している。もう少しだ」と反論してきた。上場前の実態がよくわからない段階のCSKに,わざわざ入ってくれた社員への感謝の気持ちがそれほど強かったのだろう。

 それだけに,退職する生え抜き社員については,単純明快に残念がった。1987年のインタビューで,「これまで最大の失敗はなんですか」と聞いた時の大川氏の回答は,「株を持たせすぎたなあ」という,はなはだ意外なものだった。何をいっているのかよくわからず,記者は聞き返した。

 要はこういうことだった。創業時代を支えた社員に報いるために,CSKの株式をかなり持たせた。ところが,上場後,高株価がつくと,株を売り払って,それを元手に独立する社員がかなり出た。こんなことになるなら株をそれほど分けなければよかった,というのである。

 CSK OBの社長会という企業リストを見たことがある。20社を超えるソフト会社が列挙されていた。よく考えるとこれを失敗というのは変である。大川氏を見習って,自分で経営しようという社員が相当出たわけで,むしろあっぱれな話であろう。それでも,大川氏にとって,手塩にかけた社員が去っていったのはただただ残念だったようだ。

大川氏を超えられるか
 ここに大川氏がCSKグループに残した大きな宿題がある。CSKグループが今後も成長するには,生え抜き社員が頑張る必要がある。そして,SEの常駐サービスという「本業」を維持しつつ,しかも本業と並ぶ次の事業の柱を立てなければならない。単に大川氏が敷いたレールの上を走るだけでは,真の後継者とは言えない。

 しかし,依然としてもっとも利益が出るのは,大川氏が確立した本業なのである。セガのゲーム事業は一時期,CSKの本業を超える利益を上げたが,現在は再建の時期にある。CSK社内で常駐サービスを超える新事業を模索する生え抜き社員は少なからずいたが,いずれもまだ大きな成果は出ていない。

 大川氏が作った枠組みを超えられないことに気付いた生え抜き社員のうち,あるものは独立していった。残った生え抜き幹部の多くは現在,CSKグループ企業のトップや,CSK本体の事業部長を務めている。CSK本体とセガの経営の中核は,スカウト幹部が握っている。今後,大川氏が目指した体制になるのかどうかは,まだ分からない。

 「大川氏を超える」というテーマは,CSKだけでなく,我が国のソフト業界全体に対する課題でもある。呼び名はシステム・インテグレータとかソリューション・プロバイダと変わっていても,CSKが確立した事業モデルを超えた会社は極めて少ないからだ。むしろ,多くの実態は「CSK以前」とさえ言える。

1兆円ビジョンの達成直前に去る
 記者にとり最後の本格的な取材となった1994年8月のインタビューで,「2001年にCSKグループで1兆円を売り上げるというビジョンは降ろさないのか」と大川氏に聞いた。当時のグループ売上高は約5500億円だった。業績がかなり悪化していた時だけに,大川氏は「まあ,2006年ぐらいにはなんとかなるやろ。そのメドは自分でつけたい」と回答した。

 その後,CSKの業績は回復し,1999年にはグループの年商は9000億円にまで達した。「2001年CSKグループ1兆円」を言い出した当時は,社員ですら「またホラが始まった」と言っていた。実際には,1兆円ビジョンに手が届くところまで来たといえる。ただし,大川氏はビジョンの帰趨を見届けることはできなかった。

谷島 宣之=日経コンピュータ

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