昨年5月の発表会にて  「趣味?やっぱり博打が一番楽しいな」。
 「馬とかそういうたぐいですか」。
 「いや,あれは賭けるだけやろ。自分の考えが結果に反映できない博打はいやなんや。自分で考えに考えて,どんと大金を張る博打がええな。例えば株とか企業への投資。儲かったか損したか結果がはっきり出る。自分の決断が正しかったかどうかよう分かる」。
 「それって経営そのもので,普通の人なら趣味とは言いませんよ。略歴には,水泳と日本舞踊と書いてありますが」。
 「孫くらいの年の芸者さんと話をしてもなかなか弾まないわな。日本舞踊やっていると共通の話題ができてよろしい(笑)。ただね,あなたは知らんかもしれんが,日本舞踊というのは,もの凄い運動量。一通り踊ると汗びっしょりで着替えをせなならん。足腰を鍛えられるし,姿勢もすごく良くなる。社長をやる以上,体はちゃんとしておかないと」。
 「結局,また経営ですか」。
 「うーん,確かに何をやっても,いつもそこへいってしまうなあ」。

 以上は1994年7月,大川功CSK会長兼社長(当時)に取材をしたときのやりとりである。大川氏の名前を聞くと,記者はこの問答を真っ先に思い出す。記者は大川氏を1時間以上インタビューする機会に都合3度恵まれた。1994年7月の取材はその3回目に当たり,今となっては最後のインタビューとなった。

 バブル経済の崩壊を受け,1994年当時のCSKは人員削減を実施しており,非常に厳しい時期だった。そんな時に,「趣味は何ですか」とねぼけた質問をしたのは,以下の経緯があったからだ。発端はCSKの広報部から,「インタビューと写真撮影は別にしてほしい」という注文が付いたこと。広報部によると,「質問に答えているときに写真を撮られると,回答に集中できない」と大川氏が言っているという。

 そこで本格的なインタビューの前に写真を撮ることになり,広報部からは,「写真撮影の間,大川と雑談でもしていてください」と言われた。厳しい質問ならいくらでも思いつくが,雑談となるとかえって難しい。困ってCSKの古参幹部に何を話したらいいか相談した。この幹部はこう言った。「趣味でも聞いてやって下さいよ。何十年も一緒にいるけど,おっさんがいつ息抜きをしているか時々分からなくなりますから」。

 結果として実現した,趣味に関する短い問答の中に,「人生すべて経営」が口癖だった大川氏の特徴が集約されているように思う。すなわち,強烈な経営者あるいは投資家魂,利益重視の姿勢,なんでもかんでも仕事に結びつけてしまうある種の真面目さ,である。大阪弁でやわらげているとはいえ,自分にとってマイナスになるようなえぐいことを平気で言ってしまう性格も,このやり取りからうかがえる。

 趣味を聞くようにいった古参幹部にはインタビューが終わった後で電話をし,大川氏とのやり取りを伝えた。彼は,「やっぱりそうですか。いい年なんだからゆっくりすればいいと思うのですが,経営しか頭にないんですよ」と言った。

「利益なき企業は罪悪」
 経営者兼投資家として,大川氏は徹底して利益を追求した。「利益なき企業は罪悪」と宣言し,社長点検と呼ぶ制度を通して,事業部門の計数を自分でチェックした。大昔,会計事務所の手伝いをしていたくらいで,数字にはめっぽう強かった。大川氏は講演などで,「会計事務所時代に数多くの倒産企業の悲惨な現場を見た。この経験から会社をつぶすことは罪だと確信した」と再三,語っていた。

 利益追求を徹底することで,CSKは日本のソフト会社における,典型的な事業モデルを確立した。大手ユーザー企業に大量の技術者を常駐させ,開発から運用までなんでも請け負ってしまう。常駐させる技術者として,ベテランと若手をうまく組み合わせ,ある程度育った技術者は別のユーザー企業へ回していく。その一方で,ユーザー企業と掛け合って技術者の単価を年々引き上げた。

 値上げについては技術者の引き上げも辞さず,という姿勢で取り組んだため,一部のユーザー企業から不評をかったこともかつてあった。大阪商人と言われたり,儲け主義と陰口を叩かれても,大川氏は「利益をあげなければ意味がない」と意に介さなかった。

 結果として,CSKは日本のソフト業界の単価引き上げに大きな貢献をしたと言える。やり方はともかく,「SEサービスは大手メインフレーマのハード販売のおまけ」だった状況から,「SEサービスは有償ビジネスになりうる」というところへ持っていった功績は極めて大であろう。

赤字企業には私財投入も辞さす
 SEの常駐サービスという「本業」が揺らいだ時は,大川氏は独自の才覚で別な利益源を見つけ出し,CSKを支えた。若手幹部が発案したIBMメインフレームのリース/再販という事業を日本で最初に推進し,本業を上回る利益を上げたこともあった。さらには陣頭指揮による財テクで,営業利益とほぼ同額の営業外利益を稼ぎ出し,経常利益の増益を維持したりした。

 大川氏は,バブル崩壊でも投資面で影響を受けなかった経営者/投資家として知られている。1994年のインタビューでも,「土地とか株式で損失を出すような失敗は一切していない」と胸を張っていた。CSKに続く独立系ソフト会社の中で,分不相応な研修センターや自社ビルをたてて,それが命取りになったところがあったのとは対照的だった。

 本人が数字や投資に強かっただけに,大川氏による人物評価は,「稼げるかどうか」がまず最初に来た。業界で有名だったある大物をスカウトした後で,大川氏に立ち話で「あの人はどうですか」と聞いたことがある。答えは,「あれはお公家さんだからしゃーないな」だった。どんなに大手の企業で大きな実績を上げた人物でも,CSKグループに入った以上は,しっかり儲ける仕事ができないと話にならない,と考えていたふしがあった。

 利益を徹底追及しただけに,赤字のグループ企業は,なんとしても回復させようという姿勢が大川氏にはあった。1987年に初めて大川氏にインタビューしたときの最大の懸案は共同VAN(現・CSKネットワークシステムズ)の建て直しだった。VAN(付加価値通信網)とは死語になってしまったが,要はNTTから借りた回線に付加価値を付けて再販するビジネスである。NTTやコンピュータ・メーカー系ではない独立系のVAN会社を作る,というビジョンの元,CSKが音頭をとって,設立したのが共同VANだった。ところが先行投資ばかりかさみ,利益がなかなか出なかった。

 大川氏に,「儲からない共同VANなんか止めたらどうですか」と聞くと,「これからネットワークの時代になる。だから絶対止めない。必要なら僕の資産を投じても共同VANは成功させる」と言い切った。これは1987年の発言である。2001年1月31日に,セガに対して850億円もの個人資産を贈与したことが大きな話題になったが,10数年前から常にその覚悟で経営にあたっていたと言える。

「経営はビジョンがすべて」
 利益重視の姿勢を強調しすぎたかもしれない。しっかり稼ぐ一方で大川氏は,共同VANのような次世代の事業の夢を常に語り,新たな夢には本業で稼いだ利益を惜しみなくつぎ込んだ。本人は,「経営者は大ボラを吹いて,社員を引っ張らないとあかん」とよく言っていた。

 1980年代の終わりに,いつも強調していことは,「これからは,ネットワーク,AI(人工知能),データベースが三種の神器」だった。三種の神器を,インターネット,インテリジェント・エージェント,コンテンツと読み替えれば,現在のCSKグループがこの領域で稼いでいるかどうかは別として,大川氏のビジョンは的を射ていた。

 大川氏の姿勢で一貫していたのは,NTTや大手コンピュータ・メーカー,あるいはユーザー企業系のソフト会社に対する,独立系企業としての自負である。新事業に取り組むたびに,「独立系であるうちがやらないと」と必ず付け加えた。

 2度目のインタビューをした1988年は,NTTデータ(当時はNTTデータ通信)が設立された年だった。大川氏にNTTデータ独立の影響を聞くと,「歓迎する。NTT全体だと巨大すぎてCSKグループではたちうちできん。NTTデータの規模なら射程内や」という,大川氏しか言えないような独特のコメントが返ってきた。

 3回目のインタビューで,「AIもネットワークも成果が出なかった」と突っ込むと,「直接儲からなかったかもしれんが人は育った。AIをやっていた連中が,システム・インテグレーション事業でも活躍して,NTTデータや野村総合研究所と互角で闘っている」と反論し,ここでも独立系の意地を見せた。

 独立系へのこだわりとして,有名な発言は,「東証の株価欄に,情報サービスのポストを作り,元気な独立系企業で埋め尽くしたい」というものであろう。1982年,CSK(当時コンピュータサービス)は,ソフト業界で初めて東証第2部に上場した企業となった。その直後から大川氏は,後続の企業が出てくることに期待していた。現在,株式を公開しているソフト会社を数えると,独立系企業のポストが十分作れる数に達している。大川氏が期待した通りになったわけで,間違いなくCSKは独立系の台頭を先導したと言える。