先週17日金曜日の夜、IT(情報技術)産業の長老の一人にお目にかかる機会があった。同氏は日本のジャーナリズムに関して立腹しておられ、あれこれと苦言を呈された。

 一番怒っていたのは、記者の姿勢、とりわけ取材量についてである。「一昔前の記者は現場をよく歩き、色々な人から話を聞いた上で記事を書いていた。現場で聞いたことに基づいていれば、たとえ耳が痛い指摘であっても、こちらは真摯に受け止めた。ところが今の記者は一人か二人の取材先から吹き込まれた情報を基にいきなり記事を書こうとする。『××は失敗のようですね』などど言ってくるが、そういうお前は××の現場に行ったのか、と怒鳴りたくなる」。

 筆者はその長老に頭が上がらないので「この間、あるメーカーの記者懇親会に出席したら、ほとんどの記者がIBMのパソコン事業売却について質問していたので疲れました」などと、長老の記者批判に同調する相槌を打っていた。

 しかし、そんなことを言っている筆者自身、ここ1、2年における取材量は激減している。今は記者というより、雑誌編集者なのでこれはこれでやむを得ない。ただし編集者に徹しているかというとそうでもなく、インターネット上のコラムは相当数書いている。コラムは自分の考えを書くものであり、記者の私見であることが分かる書き方にすれば「一人か二人の取材先から吹き込まれた情報を基に」書いてもかまわないと思っている。もちろんまったくの受け売りはまずい。

 一方、コラムではなく何かについて報道する場合は、長老の言う通り、相当数の取材が必要である。特に失敗事例など、当事者が公表したくない事柄の場合、できる限り複数の関係者にあたって、事実を確認していく必要がある。

 しかし筆者の経験から言うと、失敗事例の場合、「一人か二人の取材先から吹き込まれた情報」が真実であることが案外ある。失敗事例の場合、裏をとろうとすればするほど、当事者や関係者は口をつぐむか、否定する。極端な場合、一人を除く取材先全員が「失敗していない」ということすらある。さすがにこの時は書かずにネタをお蔵入りさせるが、1年くらいして失敗が明らかになったりする。「取材すればするほどかえって書けなくなる」「それでも取材を重ね、しかも最後に書く」。難しいがこれが基本と思う。