ピーター・ドラッカー氏の近著「ネクスト・ソサエティ」に繰り返し出てくる主張は、「ネクスト・ソサエティは知識を基盤とする社会であり、主役は知識労働者になる。中でも、膨大な数のテクノロジスト(技能技術者)が社会と政治の中核になる」というものである。

 知識労働者とは、今までは医師、弁護士、教師、会計士、化学エンジニアなど一部の人たちを指していた。これに対し、テクノロジストとは、コンピュータ技術者、ソフト設計者、臨床検査技師、製造技能技術者などを指す。テクノロジストは、「知識労働者であるとともに肉体労働者でもある。むしろ頭よりも手を使う時間のほうが長い。だがその手作業は、徒弟制度ではなく、学校教育でしか手に入れない知識を基盤とする。とびぬけて収入が多いわけではないかもしれない。しかし、彼らは、プロフェッショナルである」と書かれている。

 「頭だけではなく手も使う」とは、ベテランのシステムズ・エンジニアからよく聞く言葉である。彼らは管理職に近い仕事をするかたわら、今でもプログラムをかくことができる。システムの運用もできる。そして、「手が動くこと」を誇りにしている。「プログラムをかいて自分で動かした経験を持たないと、いいシステムズ・エンジニアにはなれない」と彼らは異口同音に語る。

 日本の製造業を支えてこられた製造現場の工員たちも間違いなくテクノロジストであろう。また聞きで原著にあたっていないが、ドラッカー氏はある著書の中で「知識労働者とそうでない労働者の差は、マニュアルの有無にある」と喝破しているそうだ。つまり製造業の現場で品質改善に自発的に取り組んでいる工員は、ブルーワーカーであっても、知識労働者なのである。

 逆にきれいな本社にいて背広をきて勤務していても、社の規定通りのことだけをしているのなら、マニュアル・ワーカーに過ぎず、知識労働者とは言わないわけだ。日本の誇る官公庁や自治体で勤務されている方々はどちらなだろうか。「マニュアルがない世界で考えて仕事をするのが知的労働者」という定義をいろいろな職業に当てはめてみると、なかなか面白いように思う。

 例えば筆者の職業である記者は、明らかに手を動かす肉体労働である。徹夜仕事も多いし、かなりの体力と気力が必要になる。ただしマニュアルはなく、一応自分で考えて原稿を書いているから、知識労働者の末席にかろうじて入るであろう。

 しかしドラッカー氏は、「知識労働者とくにテクノロジストは、専門教育を受け、資格を持つ」と述べている。この点、筆者は入社時に先輩から口頭で指導されただけなので専門教育は受けていない。米国の大学や大学院にはジャーナリストの教育コースがあるというが、筆者には無縁の世界である。そもそも日本人の記者でジャーナリストとしての専門教育を受けた人は何人いるのだろう。記者の問題はいろいろ考えていると、よくない方向に行くので、ここでいったん打ち切る。

 さてドラッカー氏は、テクノロジストの台頭は、少子化高齢化社会に呼応するものだと言っている。テクノロジストこそ、子育てが終わった女性や高齢者が、仕事を再開ないし続けるための初めてのキャリアであるとまで書いている。

 ここでまたベテランのシステムズ・エンジニアの言葉をひくと、彼らも「顧客の仕事を分析・整理し、あるべきシステム像を描く仕事は一生できる」と主張する。

 子供を立派に育て上げたお母さんエンジニアや、歴戦の強者である70前後のエンジニアが活躍している社会が、ネクスト・ソサエティであるならば、それは理想的と言える。

 問題は、昨今の若手エンジニアがそうした長期に働けるテクノロジストになるための教育と訓練を受けているかどうかである。多くのエンジニアは開発言語の教育だけ受け、後は現場に放り込まれている。こうした実態を見聞きすると、若手の将来が懸念される。

 ここまで書いてまた自分のことが気になった。筆者は手足が動く限り、年齢を問わず記者の仕事を続けるつもりである。だがいくら本人がやる気でも、専門教育を受けていない無資格の知識労働者もどきが一体いつまで通用するのであろうか。