「誤報の検証」はその名の通り,誤報を取り上げてあれこれとあげつらう企画である。世の中に出回る記事の多くは書きっぱなしであり,批判されることは少ない。自分だけが安全圏にいて,人様のことをあれこれ指弾するのはよろしくない。そこで本欄を設けてみた。

 といって,いきなり他人の記事を攻撃すると,「そういうお前はどうなんだ」と言われるに違いない。自戒を込めて,まず筆者自身の誤報を取り上げることにする。まったく自慢にならないが,相当な数の誤報があるので,当分ネタには困らないように思う。

日本IBMの新社長はパルミサーノ専務で“ほぼ確定”

 本誌は4月中旬,日本IBMの最高幹部側近から「日本IBM椎名武雄社長の後継者は北城恪太郎副社長ではなく,サミュエル・J・パルミサーノ専務(写真2)になる方向へ動いている」ことを確認した。本誌は日本IBM首脳と親しい大手IBMユーザーの発言をもとに「日本IBMがアジア・太平洋地域にまで権限を拡大し,パルミサーノ専務が社長になる」と解説した(前号11ページ)。その裏付けがとれたことになる。

(中略)

 本誌は「早ければパルミサーノ氏の社長昇格を6月末に決め,7月に交代。また,パルミサーノ氏の方向で変わらなければ,遅くとも年末にまでには決定がなされる」と予測する。

谷島 宣之

 「本誌」とあるのは,今はなき,「日経ウォッチャーIBM版」である。これは,IBMの動向だけを追い続けるニューズレターであった。この記事は1992年4月27日号2ページに掲載された。文中に「写真2」とあるように,サミュエル・パルミサーノ氏の顔写真も載っている。

 ほぼ10年前に書いた記事であり,データがないので,以上の文字は筆者が自分で再入力した。実に無惨な大誤報である。文字を入力して改めてそう思う。この記事が出た半年後の10月1日に,椎名社長(当時,現・最高顧問)は北城副社長(当時,現会長)の社長昇格を発表した。就任は1993年1月1日からであった。

 この10月1日の記者会見に筆者は出席した。会見が終わり,北城氏が退席しようとしたときのことである。たまたま北城氏が筆者の前を通った。「おめでとうございます」とそらぞらしいことを言った。会釈をして通り過ぎた北城氏が突然立ち止まり,筆者のほうへ戻ってきた。そしてこう言ってから,立ち去った。

「そうそう,谷島さん。パルミサーノによろしく言っておいて下さいよ」。

 通常,社長人事記事で顔写真を掲載する場合は,本当に確定のときである。この記事は写真まで載せたにもかかわらず,まったく違っていたわけであるから,致命的であった。北城氏が社長になってしばらくしてから,通産省(当時,現・経済産業省)の電子政策課へ遊びに行っていたところ,課長補佐からこう言われた。

「谷島さん,北城さんが社長にならないって書いてたよね。あれは日本の産業史に残る誤報じゃないの。反省なく記者を続けていいのかなあ」。

 パルミサーノ氏はどうなったか。米国へ戻った後,アウトソーシング事業をてがけていたISSC社(IBMの子会社)で頭角を著した。それからパソコン,サービス,サーバーといった事業部門の長を歴任した。この間,来日したパルミサーノ氏を何回かインタビューする機会に恵まれた。あるとき,「このままいくと,ルイス・ガースナー会長兼CEOの後継者になるのでは」と露骨な質問をぶつけてみた。パルミサーノ氏はこう答えた。

「You are fortune teller」。

 パルミサーノ氏は2000年7月に社長兼COOになり,事実上のナンバーツーになった。筆者はこの時から,「かつての記事は誤報ではなかった。日本IBMと米IBMを間違えただけで,パルミサーノ氏はとにかく社長になった」となどと居直っていた。誤報からちょうど10年後の2002年3月1日,ついにパルミサーノ氏は社長兼CEOになった。この年末には会長も兼務する見通しである。

 いろいろ書いてきたが,本題に入る。なぜ,これほどの間違いを書いたかである。筆者は誤報と分かった後,それまでの取材を検証し直し,間違えた理由を特定した。想像で記事は書けない。つまり筆者はだれかから聞いたわけだ。それも相当有力な人から聞いたのである。では,その人は嘘を言ったのか。違う。極めて正しいことを述べていた。その人の表現を,筆者のほうが誤解したのである。これだけでは曖昧な表現でよく分からないと思うが,このくらいでお許しいただきたい。

 冒頭で,筆者には「相当な数の誤報がある」と書いた。しかし,「日本IBM社長にパルミサーノ氏」ほどの大誤報は後にも先にもこれだけである。