【 第3回 】フューチャーシステムコンサルティング・金丸社長,
起業経験からソフト技術者に告ぐ
(2002年6月7日公開)

 フューチャーシステムコンサルティング社長の金丸恭文社長は,起業するまでの道のりを詳しく披露した。TKCで財務会計を学び,ハードウェア開発に携わったこと。ビル・ゲイツに触発されたこと。ロジック・システムズ・インターナショナルでセブンーイレブンの仕事を受注し,苦労したこと。そして,今なお続く刺激に満ちた日々。自身の経験に基づいた技術者キャリア論には,説得力がある。
(聞き手は日経BP・編集委員,上里 譲)


1/5ページ

 金丸さんは1989年,35歳でフューチャーシステムコンサルティングを起業しました。それまでの間,大学を出てからTKCやロジック・システムズ・インターナショナルで,いわゆるサラリーマンとしてお仕事をされましたよね。そもそも大学を卒業してから,ソフト関係の仕事をしようと思ったきっかけから,ちょっと思い出して下さい。

金丸(以下,敬称略) 今ちょうど,来年の新卒の最終面接を私もやっているんですけれども,思い出せば,大学を卒業する前に,私は工学部の出身なので,大抵はメーカーに行くわけですよね。私も,今,就職活動をしている工学部の学生と同じような迷いがあったと思うんです。産業に最も近い理科系である工学部ですから,メーカーに入るというのが一般的でした。だけども,「10年後の年収」とか「40代の年収」とかいう記事が,その当時の週刊誌に載っていて,そういうものを見たときに,その当時だと商社だとか生命保険会社だとか,都市銀行などの年俸が高くて,工学部出身のメーカーの管理職は年収が低いということでした。これは何十年にもわたる,まぎれもない事実ですよね。

 何でなんだろうと。本来なら「技術立国」とか「技術は大切だ,大切だ」と言っているんだけれども,それは歯車として大切なのであって,本当の意味で大切には扱われてないんじゃないかなと思ったんですね。例えば,官僚をとってみても,例えば東大法学部の人たちが官僚の頂点で,東大工学部の人というのは,多分どこかの省だと技官という扱いです。工学部出身の人が事務次官になったというのは,多分あまりないんじゃないかなと思うんですね。そんなことを思っていて,だけど,じゃあ自分が非常に文系的な商社だとか,あるいは銀行とかに行くかと言ってみても,そこだと自分を差別化できるものがないわけで,いろいろ悩んだあげく,コンピュータを使いながらサービスを提供する会社ということで,最終的にはTKC(主に会計事務所向けの情報処理サービス大手)を選んだんですね。

小型コンピュータを開発したときに見たビル・ゲイツ

 当時から,必ずしも大手企業に行く気はありませんでした。未公開企業で,規模は小さくても将来性のある会社を探したんですよね。その当時,まだ株式を公開していなかった東京エレクトロンさん(当時の社名は東京エレクトロン研究所)に興味がありました。半導体の商社ですから,理科系的な知識が生きるし,非メーカーといいますか,メーカーっぽいところを持っていますけれども,いわゆる製造業かというと100%そうじゃないということで,ここも有力な候補でした。一方のTKCは,コンピュータを使いながら財務会計のサービスを,今でいうとASP(アプリケーション・サービス・プロバイダ)みたいな形で提供していました。サービスのほうが付加価値は高いということで,最終的にはTKCを選んだわけですが,このことが,多分,今のフューチャーをやっている原点になっていると思うんですよ。工学部の人間が,コンピュータを使う会社に入りながら,広い意味ではIT業界に入ったんだけれども,コンテンツは財務会計だったということで,それを勉強したということが非常に大きかったんですね。

 ベンチャーに移ったのは,TKCが社運をかけたプロジェクトに参加した経験が大きかったわけです。それは大型機のプロジェクトではなくて,小型コンピュータの独自開発ということを当時の経営トップが決断されて,そのチームに一番末端の一番若い社員として入ったんですよね。そこで小さいコンピュータの潜在能力というか,未来価値というか,そういうものを体感しました。今にしてみればあまり大したことはないんでしょうが,進化していく可能性を自分でさわってみて,そう思ったんですよね。深夜に残業して,相談する相手もなかなかいなくて,TKCの中でも特殊なプロジェクトだったもんですから,1人で夜中にさわっていたときに,これはひょっとすると将来すごい可能性があるんじゃないのかなと思って。

 そうこうしているうちに,IBMのPCが出てきました。我々が開発した後にです。その仕様を見たら,それほど大したことはなかったのですが,そのプロジェクトに私より1歳年下のビル・ゲイツがかかわっていた。マイクロソフトという会社がかかわって,私より1歳年下だと。彼が何とその当時のコンピュータ業界の頂点にいたIBMと取引している。自分はそのとき26か27歳だったと思うんですけれども。そのとき,「自分が,例えばIBMのような大メーカーと直接交渉したりできるようになるまで,どれだけかかるのかな」と思ったんです。TKCも非常に若くてスピーディーな会社で,自分のキャリアアップはある会社だったんですけど,それでも僕は待てなくて・・・。同世代の人が活躍しているということで非常に刺激を受けて,もうパソコンを自分で作ってみたい,IBM PCをしのぐPCを自分で作れる,あるいは作りたいと思って。

 「じゃあ,また末端のエンジニアでやるか」ということなんですけど,それはもう全然おもしろくなくて,プロジェクト・リーダーといいますか,「チームを率いる責任を与えてください」ということで,チャンスをもらってベンチャーに入ったんですね。そういう意味では,私は小規模な会社のほうが,自分のチャンスは多いということは身をもって体験したわけですね。ところがベンチャー選びのときに,やはり成長性とか収益性がないとダメだと思うんですけれども,今の人たちはずっと静止しているような中小企業に入って,ベンチャーに入ったというつもりになっているケースが多い。あるいは,その経営者が非常に情報開示力がある人じゃないといけないのに,単に中小企業の公私混同型の経営者のもとへ行ったって全然意味がないわけで,それは見きわめないといけないと思うんですが。

 いずれにしても,かなりハイテクなベンチャーで8年間過ごしたんですけれども,この会社の社長が,私が今まで知った経営者やリーダーの中で,最も頭脳明晰で,英語も堪能でした。その方も海外で仕事をしておられましたので,私にも若いけれどもチャンスを与えてくれたのです。でも,肩書きは,部長とか課長だと,給与や組織のポジショニングでかなりあつれきがあったりするもんですから,プロジェクト・リーダーという名称でした。これは非常にタスクフォース型で,プロジェクトが終わったら,またヒラに戻ったり,あるいは係長かもしれないと。でも,そのときはプロジェクト・リーダーということで。実際にはプロジェクト・リーダーというタイトルでずっと過ごしたんですね。

苦しかったセブン-イレブンの仕事

 ですから,TKCで財務会計も勉強して,それからハードウエアも勉強させていただいて,しかもベンチャーではセブン-イレブンさんの仕事に携わったわけです。この仕事はアプリケーションを作る期間が非常に短かったもんですから,引き受け手がいなくて,我々のようなハードウエアに近いエンジニアたちが,セブン-イレブンさんの業務アプリケーションまで短期間で作ったんですね。そういう意味でいろんな経験を積めました。1つの要素技術を見たら抜きん出た人は世界にいたのかもしれませんが,今のようなことを複合的に持っていて,そこそこ成果を残したというのは,私は世界でもそんなにいないといううぬぼれというか,自信過剰というか,そういうことがあって起業したんですけど。

 先ほどのお話の中で,セブン-イレブンの仕事を経験したのは1985年ごろで,当時ロジック・システムズ・インターナショナルというベンチャー企業に属していらっしゃいました。アプリケーションまで踏み込んだ店舗システムを開発したわけですが,当時,セブン-イレブンとの間でどういうやり取りがあったのでしょうか。ソフト技術者としてお客さんとのやり取りで苦労した点をお聞かせ下さい。

金丸 最初にドアを開けてもらうまでに,かなりの時間がかかったということですね。ノックして,「じゃあ,話を聞こう」というわけにはいきません。先方もお忙しいですし,我々が一体何者か分からないわけですから,ドアを開けていただくまでにかなりの工夫を要したというか,忍耐というか,執着心というか,それが一番大きかったと思うんですね。それ以降は,話を聞いていただけました。今のビジネスをやっていくうえでも,そのときの経験から身についた価値観というのがあって,そういう意味では非常に影響が大きいんです。なぜ聞いてくれたかというと,要するに,「(セブン-イレブン)ご自身がいつももっと良いものを求めていたから」ということに尽きるんですね。いいものを求めて,例えば「去年と同じような仕事をするまい」と思っているからこそ,熱心な若者がやってきて,何か提案をしているから聞いてやろうか,という気になったということですけれども。

 あのとき,セブン-イレブン以外の大企業に足繁く通っていたら,多分徒労に終わっていたでしょう。最後の最後まで,ベンチャーだからとか,従業員数がどうだとか,資本金がどうだとか,過去の実績がどうだからということで,僕は採用されずに終わったと思うんですね。当然,条件は厳しかったんだけれども,相手がそのときすでに1位であるがゆえに,「ほかのコンビニエンス・ストアでどんな実績があるの?」と聞いて,2位以下の実績があるからと言っても,「じゃあ,いいね」と採用するわけはありません。

 私のほうは,「流通業のことは全く知りませよ」とはっきり申し上げたんですね。そしたら先方は「そんなことは全然関係ない。自分たちは単なる小売業と思ってない」というふうにおっしゃるわけです。そうすると,「ゼロベースでいいアイデアを持ってこい」ということにもつながったので,後はそういう良いアイデアさえ考えつけばチャンスがあるということになったわけです。でも,そのときは非常に苦しくて,「こんなむちゃくちゃな要求をする人たちが日本人の中にいたのか」というぐらいむちゃくちゃな要求だったんですけれども。

 例えば,どんな要求だったのですか。

金丸 「自分たちは24時間365日オープンしているのだから,今日言ったことは明日ぐらいには何とかしろ」とか,「最低でも1週間以内には課題を解決しなさい」とかおっしゃっていました。それから,実は私がやらせてもらった仕事が終盤を迎えて,もとより想像を絶するスケジュールだったんですけれども,最後に「もうちょっと時間が欲しい。ベストは尽くしたんだけれど,もうちょっと時間が欲しい」というふうに当時の責任者の取締役にお願いしたら,「君たちは寝てるだろう」と言われて。睡眠時間を削ってはいますけれども,ゼロではないわけですから,寝ているというようなことを言ったら,「3交代で休まないで回せばスケジュールは3分の1になる」と。こんな台詞を,不眠不休で疲れ切っている私に明るく言うんです。すごくびっくりしましたよね。