【 第2回 】 松井証券・松井社長,ネット証券を強烈に説く
(2002年5月31日公開)

松井証券社長の松井道夫氏は,リアルインタビューに応じ,松井証券に転職した経緯や社長就任後の苦労談から,ネット証券の本質,ビジネスマンとしての生活,余暇の過ごし方,独自のIT戦略までを熱く語った。以下に掲載したのは,約1時間にわたるインタビューの全文である。
(聞き手は日経BP・編集委員,上里 譲)


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 松井さんは15年前に,それまで約12年間勤めた日本郵船をお辞めになって,松井証券に入社されました。当時,奥様が松井証券社長の娘さんだったということがきっかけで,証券業に転身されたわけですが,そのとき最も悩んだことは何ですか。

松井社長(以下,敬称略) 結論から言うと,ほとんど悩んでなかったですね。僕は根がいい加減な人間ですから,成り行きですべて決めてしまうので。ただ,強いて言うと,「日本郵船で海外駐在を1回は経験した後,できれば移りたいな」という勝手な希望はあったんですけどね。大学を出てからなぜ日本郵船に入ったかというと,外国で仕事をして外国で生活をしたかったからです。にもかかわらず,途中で組合をやったこともあって,結果的には11年間で1回も外国駐在を経験しなかったのは「切ないな」と。

 郵船はおもしろい会社でしたし,好きでした。けれども家内が証券会社の社長の娘で,それは結婚したときから分かっていたんですけれども,さらさら後を継ぐつもりはなかったんですけどね。おやじさんももう70過ぎだし,「おまえは郵船で何ができるのか」と言われて,「これも縁か。運命か」という感じで,割とすんなり決めたつもりですけどね。

 日本郵船では,どんなお仕事をされたのでしょうか。

松井 神戸の港からスタートしまして,楽しかったですけどね。3年後ぐらいで本社に来て,あと残りの8年間ぐらいずっと本社勤務です,丸の内の。本社ではタンカーを3年くらいやって,その後は貨物船やコンテナ船などの定期船航路の運営に関係する仕事をしてました。

10年間のリストラが力の源

 それから松井証券に転職して,社長に就任されてから約7年が経ちました。前期の決算は非常に良い数字でしたが,この7年間を振り返って一番しんどかったことを二,三挙げてください。

松井 結構いろいろ中身の濃い7年でした。というよりも,松井証券に入社してから15年。もう15年経ってしまったんですね。ちょうどブラックマンデーがあった1987年ごろに入社しまして。もちろんすぐ社長になったわけじゃありません。個人商店みたいな小さな会社ですから,役職がどうのこうのなんて言ってもしょうがないんですけれども,法人部長から始まって,営業本部長,常務営業本部長,その後で社長です。法人部長のときは,正直言って何だかよくわからなくて。バブルの絶頂期でしたからね。ちょうどバブルが崩壊したときに営業本部長になって,それから実質的な社長だったんじゃないかなと自分では思っています。義理のおやじは,私が入社したときに会長になっていましたし,弟が社長だったんですが,90年ぐらいから私が社内は全部見ていました。

 この10年間のいわゆるリストラクチャリングは,自分なりに思い切ってやりました。ある意味では人が対象ですから,私の考え方になじまないというか,反発した人たちはたくさんいましたし,そういう人たちはそれなりの考え方があったんでしょうけどね。でも,あえて強権を発動して「おれはこう考えているんだ」ということでやって,随分社員も辞めました。そういういわゆるリストラの過程が,結局は今の松井証券の前提になったのかなと。

 「失われた10年」とよく言いますけれども,松井証券の場合は失われたどころじゃなくて,この10年がすべてだったな,と。この変化はすさまじかったです。それがあるからこそ今がある。別に成功しているわけじゃないですけれども。そういう意味では,いい加減なところもありましたが,結構,言いたい放題,やりたい放題,自由にさせてもらって,自分としては苦しいというより,それなりに充実感はありますね。

 松井証券がインターネット証券を始めたのは4年前ですが,それまでの6年間で実施したリストラは,お店を縮小・撤廃したり,人員を削減したという意味ですか。

松井 そうです。ともすると「松井証券=ネットビジネス」というイメージがあって,その類の賞もたくさん頂きましたが,実はインターネットというのはツールにすぎません。実はその前のリストラクチャリングが一番大事なのです。要するに,事業のやり方を変えないと新しい時代に入っていけないわけですから。4年前にネット証券を始めてから今までというのは,ある意味で過去の延長線上なんですよ。この4年間だけがクローズアップされますけれども,「この4年間は実はその前の6年,10年が前提だ」という気持ちはすごくありますね。

 そのリストラクチャリングというのは,端的に言うと,低コスト体質を作るということだと理解していいでしょうか。

松井 そうですね。もっと言うと,すべてお客さんがコストを決めるんだと。これは郵船のときに痛感しました。供給者である企業が決めるんじゃないと。客に合ったコスト体系にしないといけない。当然のことながら,すべてのお客さんが営業マンという膨大なコストを本当に求めているのかと。少なくとも私は,「営業マンのコストを求めてない人のほうが多いんじゃないか」と決めて,それだったら「営業マンを前提としない証券ブローキングというのは一体どういう形があるかな」と考えたわけです。当初は通信取引,つまりコールセンターから始めたわけです。その後,インターネットが来ただけの話で,そういう意味ではコスト構造改革というのがリストラクチャリングの本質だと思いますね。

 その本質を見抜かれたのは10年ぐらい前ですか。

松井 組織のボトムでしたけど,日本郵船のときにそういう経験を11年間やってきて,それで移ってきたわけですから。むしろこっち側の世界のほうが異質に見えたんですね。「郵船のときのあの世界でおれは生きるよ」という形で会社経営をしてみようというふうに決めただけの話ですね。

 松井さんは以前,「海運業界で起きた強烈なイノベーションを目の当たりにした」というお話をされていましたね。

松井 そうですね。コンテナ船というツールができたとことによってイノベーションが確かに起こりました。海運の定義が変わったんですね。従来の海運というのは,「港から港へ行けばそれでいいだろう」という話ですけれども,コンテナというのはトラックにも積めるから「ドア・ツー・ドア」ということに様変わりした。場合によっては飛行機による輸送もつながってくる。コンテナという概念およびツールが出現したことによって,物流が抜本的に変わった。これはユーザー・フレンドリーというか,顧客にとってコストをいかに合理化できるかという発想から生まれたツールですからね。ある意味では,今の証券ブローキングにおけるインターネットと似たようなもので,それを20年前に私は経験しているんです。だから,「バック・トゥー・ザ・フューチャーだ」と言っているんですよ。

 もし学校を出てから日本郵船に入っていなかったら,松井証券に入社しても・・・。

松井 こういう発想はできなかったでしょう。私は別に御曹司でもないんですから,例えば銀行や大手証券に入っていたら,絶対に発想できなかったでしょうね。