ある理由があって,日経コンピュータの創刊号(1981年10月5日号)から昨年末の第616号(2004年12月27日号)までに掲載された特集記事616本を調べてみた。弊社の資料室には地下室のような場所があり,弊社が過去発行したすべての雑誌が保存されている。年末と年始に時間をつくって地下室にこもり,バックナンバーをひもといてみた。地下室には普段人がいないし,電話も鳴らず,極めて快適であった。

 過去の特集群をなぜ読み返したか。それは「オープンシステム」とは何かを調べようと思ったからである。昨年に「『オープンシステム』って何?」という記事を書いた。執筆時にインターネットを使ってあれこれ調べたが筆者の検索能力に問題があるらしく,言葉の定義がよく分からなかった。そこで日経コンピュータの過去から現在までの特集を追えば,いつごろオープンシステムという言葉がITの世界に登場したか,どのような定義であったか,が分かると考えた。

 あまりに静かなので空調の音がやけに大きく聞こえる資料室でバックナンバーをめくり,過去の特集記事の題名を眺めていくと色々なことが分かって面白かった。筆者は通算すると15年ほど日経コンピュータ編集部に在籍していたため,この雑誌に関しては思い出がたくさんある。

オープンシステムとはワークステーション

 まずオープンシステムに関して調べたことを報告する。いささか意外であったが,過去616回に及ぶ日経コンピュータの特集記事で「オープンシステム」を題名に付けたものは2本しかなかった。1989年6月19日号の「オープン・システム時代を創出する高性能ワークステーション」と,1995年4月17日号の「1768社にみる オープン・システム導入実態」である。この2本とも,オープンシステムそのものの記事ではない。前者はワークステーションの動向記事,後者はユーザー企業における機器やソフトの導入状況調査だった。

 過去の日経コンピュータを見ると,1985年から「メインフレームとは異なる新しいコンピュータ」として,ワークステーションを熱心に紹介し続けている。この段階で「ワークステーションすなわちオープンシステム」という認識があった。ワークステーションはいまや死語かもしれない。現在でいえば,UNIXやWindows を搭載したコンピュータに当たる。

 日経コンピュータの特集でワークステーションを取り上げた第一弾は1985年10月14日号の創刊4周年記念特集「高性能ワークステーションが作る知的作業環境」であった。今見返すと,なんともはや凄い題名である。ここで脱線するが,19年前に掲載されたこの特集は,当時のエース級記者2名に新人1名を加えたチームによって執筆されている。その新人とは筆者であった。筆者は1985年4月入社である。サン・マイクロシステムズが日本に上陸を始めた時期であった。

 ちなみに記者二人はいずれも情報産業で仕事をした上で,弊社に転職し記者になっていた。ビジネスの知識も技術の知識もある。一方,筆者は理科系の大学は出たし,プログラミングの経験は多少あったものの,実務経験は皆無である。ここまで書いて思い出したが学生時代に使っていたのは今は無きDEC社のミニコンピュータPDP-11であった。

 新入社員の筆者は先輩二人についてワークステーション・メーカー各社を訪問したが,取材の時に飛び交うテクニカル・タームがさっぱり分からなかった。にもかかわらず,筆者は各社のワークステーションのスペック表を作成しなければならず閉口した。先輩の一人は厳しく「谷島君ねえ。給料もらっているんだからプロでしょう。仕事以外の時間に自分で勉強して追いつかないと」と言った。

 ただし,もう一人の先輩は年が近かったこともあり取材の後,喫茶店に入ってあれこれと教えてくれた。当時のやりとりを再現してみよう。

谷島 (取材ノートを見ながら)「○○って何ですか」
先輩 「それはミニコン・メーカー大手の名前」
谷島 「イーサネットというのは」
先輩 「LANの規格の一つ。LANというのはね・・・」

20年前,人気がなかったパソコン

 お粗末な限りである。ところで「高性能ワークステーションが作る知的作業環境」という大特集が掲載された日経コンピュータ1985年10月14日号をめくっていると「第2のパソコン用“OS”MS-DOS用『統合操作環境』の機能と現状を探る」という記事が出てきた。括弧が多くなんとも分かりにくい題名だが,統合操作環境とは要するにマルチウインドウのことで,つまりはWindowsなのである。

 この記事を読んでみると,MS-DOS上で動く統合操作環境で有力視されるものは三つあると書いてあった。マイクロソフトのMS-Windows,米インディアン・リッジ社のWindow Master,そしてデジタルリサーチ社のGEMである。記事の最後の段落は「勝ち残るのはどれか」という題で,結論としてMS-Windowsが有利となっている。ただしその理由は「松下電送が採用している」というもの。

 MS-Windowsに関して面白い記述があった。「他の国産パソコン・メーカーは態度を決定していない。MS-Windows発表当時は採用するといっていたパソコン最大手の日本電気もいまは白紙に戻している」。年若いIT Pro読者のために補足すると,日本電気とはNECのことである。

 パソコンの記事を持ち出したのは,コンピュータの世界がほぼ20年後どうなったかについて書きたかったからである。「高性能ワークステーションが作る知的作業環境」で持ち上げたワークステーション群の中で現存しているのは,サンの製品くらいである。実際に世の中に大量導入されたコンピュータはWindows搭載パソコンであった。知的作業環境が真に実現されたかどうかは議論が分かれようが,少なくともワークステーション特集の中で期待していた環境はパソコンによって実現されている。

 筆者が入社した20年前の日経コンピュータ編集部の雰囲気を思い起こしてみる。なんといってもメインフレームが一番重要なコンピュータであり,二番目がオフコンという扱いだった。特集記事で市場シェア調査を毎年実施していたが,調査対象はメインフレームとオフコンだけ。パソコンはオフコン調査の時についでのように調べていた程度であった。

 メインフレームとオフコンを超えるマシンとして編集部が期待していたのはUNIXワークステーションであり,パソコンはあまり人気が無かった。当時の編集部は実務経験者の数が圧倒的に多く,そうした玄人記者からするとパソコンは取材対象としていささか物足りなかったのである。

 ただし20年近く前の日経コンピュータ編集部にあって,パソコンの話を執拗に書いていた記者がいた。田口潤という。先の統合操作環境の記事は田口記者が書いており,彼はその後も「32ビット機時代に対応できるか,正念場迎えた日電PC-9800」(1986年7月7日号),「成るか,PC-9800互換機市場の確立」(1987年6月8日号),「浮上するIBM PC/AT互換機日本語版の開発計画」(1987年8月17日号)といった特集を書いている。若い読者のために再び補足すると当時,我が国のパソコン市場はNEC,ではなかった日本電気が圧倒的なシェアを維持しており,それがそのまま続くのかどうかは重大な問題だったのである。

 ここまで書いてまた思い出したが,田口記者が編集会議で「PC-9800の牙城を揺るがす可能性の一つとして,米国で売られているIBM PC互換機の日本語版が出てくる」と,その動きが表面化する前に提案したとき,当時の某副編集長は「そんなバカな話があるか」と切って捨て,IBM PC互換機の記事をいったんお蔵入りにした。だが一喝した副編集長は日本経済新聞に戻ってから「NECがいつIBM互換機を出すか」というテーマを追うようになった。

 田口記者はその後,複数の雑誌やニューズレターの編集長を務め,昨年11月から日経コンピュータの第7代目編集長になった。