日本の産業,とりわけコンピュータやデジタル家電,半導体などハイテク分野の企業経営者たちは,米IBMのサミュエル・パルミザーノCEO(最高経営責任者)が中核になってまとめ,2005年2月あるいは3月に米政府に提言する,いわゆる「パルミザーノ・レポート」に注目している。

 それが,ちょうど20年前,「日米構造協議」や「プラザ合意」を引き出し,85年の1ドル245円が87年には同125円台と猛烈な円高を誘導した「ヤング・レポート(正式タイトルは『世界的競争・新しい現実』)」のフォローアップ版と見られるからだ。ヤング・レポートは,日本の輸出産業が壊滅的な打撃を被る引き金となった。

 時あたかも,米国財政と貿易収支という双子の赤字は,80年代半ばの極限状況と酷似している。2004会計年度(2003年10月~2004年9月)の財政赤字は5000億ドル(55兆円)台に乗せそうであり,2003年の貿易収支は4893億ドル(52兆円)に達し,2年連続過去最大を更新した。日本のハイテク産業はようやく暗闇から脱しかけているが,その回復は輸出中心。内包する課題解決の見通しは決して明るくない。その最中の「パルミザーノ・レポート」となるだけに,「米国が何か仕掛けてくる」と警戒心が募る。

パルミザーノ・レポートが注目される背景

 米国の研究開発の方向性を決める政策提言に重要な役割を果たしているのが「競争力評議会(The Council on Competitiveness)」である。競争力評価で有名なヤング・レポート発表の翌年の1986年に,当時,米HP(ヒューレット・パッカード)の社長であったジョン・ヤング氏を議長にして設立された。著名企業のCEOや大学学長,労組指導者で構成され,米国の競争力に関する報告書を発表し政府に提言している。

 IBMのパルミザーノCEOは,その中で競争力を強化するための具体的な提言を検討・作成する「全米技術革新イニシャティブ(National Innovation Initiative)」の議長にジョージア工科大学のワイン・クロウ学長と共に就任した。市場の変化を洞察する経営力と,市場の流れを市場の変化と巧みに共振させつつ,持てるパワーの増幅が可能なだけの体力や技術力,マーケティング力を備える希有な企業,それが今のIBMである。

 IT産業ウォッチャーであるRITAコンサルティングの伊東玄主席研究員は「強い企業が高品質の経営をするからますます強くなる。そのIBMのパルミザーノCEOが米国の将来の国際競争力を担う重責に就いたのはうなずける。次の段階の知的所有権戦略に向けた提言が予測される」という。

 全米技術革新イニシャティブは2003年10月30日にワシントンDCで開催した競争力評議会年次総会の場で新たに発足した。米企業の技術革新を奨励するため米政府が発動する新施策を強力に後押しするのが目的だ。先の「ヤング・レポート」は,当時のロナルド・レーガン大統領が米国を蘇生させるため,大統領令により設置された「産業競争力大統領諮問会議」が作成した。「パルミザーノ・レポート」は,ヤング・レポートのように米国政府が直接関与したものではなく,いわばロビー活動だ。しかし,その影響力は絶大である。

 伊東氏は,米国の産業競争力の弱点を指摘し,それを克服する数々の政策提言をしてきた競争力評議会について,次のように分析する。「端的に言えば,日米経済摩擦から日米経済戦争に至るシナリオを提言している機関。レーガンからクリントン大統領まで,米政府は着実にその戦略を実行に移してきた。プラザ合意,スーパー301条,半導体戦争,知的所有権戦略など,すべてのシナリオはすべてここに帰着する」。

“下敷き”になると見られる競争力評議会による報告書の内容は?

 日本のハイテク産業が,米競争力評議会から2005年に出される提言「パルミザーノ・レポート」を警戒する理由は,99年3月11日に同評議会が発表した研究報告書「米国の繁栄への新たな挑戦:イノベーション指数から分かる事実」の存在。米国がICT(情報通信技術)産業のリーダーシップで繁栄を謳歌していた絶頂期であったにもかかわらず,同報告書は,米国の技術革新に対するコミットメントが弱まっている点を警告。とりわけ日本や北欧諸国に対する警戒感を強めていた。パルミザーノ・レポートが,この研究報告を下敷きにしているのは間違いない。

 同報告書は,マーケティング論の第一人者である,米ハーバード・ビジネス・スクールのマイケル・ポーター教授とMIT(マサチュセッツ工科大学)スローン・スクールのスコット・スターン教授が中心になってまとめた。約100ページにわたる99年3月の報告書の骨子は以下のようなものだ。

●米国は,現行の政策や投資形態が変わらない限り,卓越した技術革新国家としての地位を失っていく。それがこの研究が到達した最も驚くべき結論である。大繁栄を経験している今の米国は,最大の危機に直面している。80年代から90年代半ばまで,米国は財務状況の改善や市場開放,品質向上,コスト削減,商品化期間の短縮を通じた産業の生産性向上などの課題に集中し,経済再生に成功した。しかしながら,これらの課題は既に技術革新という新たな挑戦に置き換わりつつある。先進国の経済発展に技術革新はますます基本的な要素となった。

●なぜ,技術革新が先進国の繁栄にとって不可欠なものとなってきたのか。もはや先進国は,平均的な製品を平均的な手法で作っていたのでは,市場がグローバルになっている中で,高い賃金と生活水準を維持していけない。今後の繁栄は,いかに動く標的に狙いを絞り,新しい製品やサービス,手法を発見し市場に出し続けるかにかかっている。

●「イノベーション指数」は,(1)経済全体の技術革新をサポートする「共通的な技術革新インフラ」(例えば,その国における基礎研究への投資や情報インフラの整備状況),(2)相互に関連し合う特定の産業群の中で技術革新をサポートする「産業群の相互関連状況」(例えば,IT産業ならIT産業を取り巻く環境や市場のデマンド,半導体など周辺産業の整備状況),(3)(1)と(2)の「リンケージの強さ」(例えば,基礎研究を企業に導入する仕組みの存在や,企業の基礎研究への投資状況)など,これら3つの要素を定量的に示したものである。

日本は99年と2005年のイノベーション指数で1位,その意味するもの

 イノベーション指数の定量化は,この3つをさらにブレークダウンし,加えて重み付けした他の8つの指標を混合しながら,最後にその国の人口で割っている。そして,同報告者は,イノベーション指数が,(1)リソースの多寡や政策のコミットが技術革新の変化を左右する,(2)8つの指数がいかに単独で優れていても技術革新指数は高くならない,(3)研究開発投資は,民間,大学,政府の順で技術革新への効果が高い,(4)もし政策と投資レベルが長期的に一定なら,技術革新は漸減する,(5)高い技術革新は輸出と生産性向上と強く関連する,などの点も明らかにしている。

 問題はイノベーション指数だ。95年は米国が1位で,スイス,日本,スウェーデン,ドイツ,フィンランド,デンマーク,フランス,カナダの順だ。しかし,99年と2005年の予測は,何と日本が1位に位置づけられている。米国は99年が3位,2005年には6位と大幅にランク・ダウン。2005年の2位はフィンランド,以下スイス,デンマーク,スウェーデン,米国,ドイツ,フランス,ノルウエー,カナダ,オーストラリア,オランダ,英国と続く。

 前出の伊東氏は,この報告は非常に興味深いとし,こう指摘した。

 「日本が不況にあえいでいるときに,マスメディアで喧伝されていることとは異なり,日本が持っている潜在的な技術力を仮想敵と想定して,米国を大いに刺激している。この報告から学ぶべきは,米国ばかりでなくスイスや北欧諸国をもっとベンチマークするか,相互の人的交流を拡大させるべきということ。また,このような仕事のやり方や戦略の作り方を日本企業や政府はベンチマークすべきだ。目先のキーワードに振り回され,くるくると戦略を転換することがスピード経営と間違えてはならない。それは消耗戦となるだけである」

現時点で考えうるパルミザーノ・レポートの内容と今後の日程

 IBMのパルミザーノCEOが中心になって取り組む,具体的な戦略的政策の内容が気になるところだ。同氏が2003年10月30日に米競争力評議会でスピーチした内容,さらに同氏の考えを米BusinessWeek誌(2003年11月17日号)に投稿したものなどから察すると,以下の5点が中心的に検討されると見られる。

(1)官民両セクターの協力関係強化に向けた米政府の役割,(2)技術革新を推進する資金面からの支援のあり方,(3)政府資金の投入の有無,(4)公的セクターとベンチャー・キャピタルとの関係,(5)ライフサイエンス,エネルギー,ナノ技術,ゲノム技術,ICT(情報通信技術)などの分野で,大学や研究機関が技術移転などに関し新たな原則を確立すべきか,などである。

 今後の日程は次のようになる。全米技術革新イニシャティブが上記の諸問題を検討し,今年8月までに検討の結果明らかになった事実や提言を盛り込んだ“たたき台”を作成する。その後,企業や議会の政策立案者,大学・研究機関,労組指導者,トップ・レベルの研究者らに提言の採用を目的としたロビー活動を展開する。

 そして,米競争力評議会は,今年11月の大統領選の投票が終了した12月に全米技術革新イニシャティブに関する問題を検討するため「全米技術革新サミット」を開催。最終報告書,いわゆる「パルミザーノ・レポート」は新政権発足直後の2005年2月あるいは3月に発表する予定。12月と来年2~3月というのは,新政権に影響力を行使し続ける目的からだ。

 ただし,米政界の様子に詳しい消息筋は「パルミザーノ・レポートが2005年なのはタイミング的に弱い」と見る。理由はこうだ。米国産業の競争力というテーマは重要だが,選挙を控えたブッシュ政権にとり“競争力”は票につながりにくい。中国やインドの台頭で苦しんでいる業界はあるが,それはほんの一部。民主党予備選でも,外国たたきを標榜する保護主義的主張が強い候補は苦戦した。

 2005年のパルミザーノ・レポートは,それがブッシュ氏だったとしても次期政権の課題で,次期政権にとっては参考になる提言だが,現政権が陰でこうした動きの糸を引いているとは,先の理由で考えにくい。もし現政権が動くのなら,業界救済色の強い提言を大統領選挙前に積極的に打ち出すべきだ。

 しかし,例えば,米ICT業界は急ピッチで回復しつつあり「救済」を前面に出しにくい状況がある。だが,ブッシュ政権は,先の宇宙開発計画に見るように,抜き打ち的に政策の花火を上げる傾向が強いため,議会の一部が中長期的な影響力の拡大を狙って米国の競争力強化につながる技術革新政策を画策している可能性もある。

 「ヤング・レポート」では,日本や西独の経済的台頭が顕著となる中で,米国製造業の競争力低下という現実を前にして,国際競争力を強化する提言が盛り込まれた。しかし,同レポートから20年が経過した現在は,グローバル化が急速に進展しており,特に日本を含めた対アジアで米国の国際競争力が新たな課題として浮上している。これが,米産業界や大学・研究機関関係者が「全米技術革新イニシャティブ」に取り組む背景である。

 パルミザーノ氏は,スピーチの中で,こう話した。

 「中国,インド,韓国,そして他の国は米国の構造的な先進性を模倣している。彼らの国は非常に競争力をつけてきており,それがすべて賃金のせいだと考えるのは認識が甘い。彼らは教育やジョブ・スキル,現代的なネット・インフラに投資している。米国と他の先進国は,国民の生活水準を切り下げたり,障壁を設けることによって,彼らに対抗すべきではない。イノベーションに対して最も豊かで魅力的な環境を作るべきだ」

 これは同時に日本の問題でもある。さて危機意識が薄い日本は,一体どうするのだろうか。

(北川 賢一=コンピュータ・ネットワーク局主任編集委員)