日本のある著名な研究所に向かうときに渡る橋を“変人橋”と呼ぶ。窓のない研究室に閉じこもり深い思考に浸ったり,技術雑誌に論文を書き,会議に出かける。これがこれまでの研究者の姿だとされている。

 IBMはこういう研究者のスタイルを変えようとしている。米IBMのサミュエル・パルミザーノCEO(最高経営責任者)が「街に出よ」と,IBMのワトソン研究所(トーマス・J・ワトソン・リサーチ・センター)など8つの基礎研究所の研究者3000人に指令を出したのは2002年11月のことだ。今では,多くの研究者がIBMグローバル・サービスのコンサルタントと共に顧客を訪れ,特定の問題を解決したり,IBMが開発した情報技術の顧客先での使われ方を理解し,さらなる活用に知恵を絞り始めている。

 野に出るための予算も,オンデマンド戦略向け100億ドルの10%,2005年までに10億ドルを振り向けた。それ以降,IBM基礎研はコンサルティング部門との協業を推進する枠組み「オンデマンド・イノベーション・サービス(ODIS)」に則り,約200人の研究者がIBMビジネスコンサルティングサービス(IBCS)と一緒に活動するようになっている。当面,IBMコンサルタントや顧客と一緒に,高度解析,ビジネス・プロセス変換,情報統合,実験経済学などの分野で仕事をする。

 日本IBMでも今年9月から,東京基礎研究所(神奈川県大和市)の200人の研究者の中から本人希望に基づき11人が,JR東京駅前の丸ビルに居を構えるIBCSの新組織ODISに異動。IBCSとの二人三脚で顧客訪問を開始した。「研究者を派遣してもらいたかったらIBMに頼めばいい」。そんな状況が全世界で出来上がりつつある。

基礎研究そのものをサービス・ビジネスに転換

 聖域だった基礎研を顧客指向に変えようとしたのは,先代CEOのルイス・ガースナー氏である。同氏はIBMに来るやいなや事業部門の製品開発費を大幅に削減する一方で,基礎研究所の予算はカットしなかった。その代わりに研究者に発想の転換を求めたのだ。93年にCEOに就任してから本社以外の最初の訪問地にワトソン研を選び,1700人の研究者に対し「IBMの将来はR&Dが握っている」と呼びかけた。それに呼応し,ワトソン研はこれまで20人程度を顧客に派遣した実績がある。

 しかし,この動きが本格化したのはパルミザーノ氏がODISを発令してからのことだ。同氏はサービス部門が2002年の総売上高812億ドルの45%を占める現状から,これまで顧客と会うこともなかった研究者が,10年以内に確実に到来する「サービスの売上比率70%」,つまり「IBMはサービス会社」という使命にどう対応できるようにするか,その方法を模索している。対策を誤ると,研究者はIBMにとって無用な存在と化す可能性すらある。

 パルミザーノCEOは,IBM基礎研究所そのものをサービス・ビジネスに転換しようと考えた。それが研究者の将来を拓くからだ。ODISの発令はその第一弾である。IBMのトップ頭脳を野に放つことで,研究者がリアルな世界の難問を解決したり,新しいビジネスを開発するかもしれない。また,研究者たちの研究努力を市場や顧客のニーズとすりあわせることで,ITサービスの可能性をさらに高め,未来の市場を厚くするかもしれない。「解決が最も困難で,最も挑戦しがいがあるのはサービス分野」と,パルミザーノCEOは言う。

顧客と一緒に仕事をするのは研究者にとって大きな刺激

 これに同意するのは,日本ITサービス・マーケティング協会の河本公文代表だ。「ITサービスとマーケティングはかつて関連がないとされていた。しかし,今ではサービスの獲得にマーケティングが必要だと認識されるように変わった。だから,研究開発の成果をサービス・ビジネスに活かそうとするのは当然の動きだ。ITがどんどんサービス産業化する中で,IBMの挑戦は必ず先行者利益をもたらすはず」と見ている。

 東京基礎研究所のサービス&ソフトウエア部長で工学博士の久世和資氏は「技術リーダーは世の中に影響を与えたいと常に考えている。研究者の仕事が現実の世界に,これまでとの違いを創り出せるからだ。顧客と一緒に作業をする以上の刺激はないということも承知している。顧客に出向くことで技術全体の底上げが期待できる」と話す。

 研究者に対する評価も最近の10年で変わった。(1)事業部門とのリレーションシップをとっているか,(2)研究成果が実際の事業で売り上げをいくら稼いだか,そして,昔の評価基準である(3)特許取得数,の順番だ。久世氏によれば,IBM3000人の研究者のうち150人が事業部門とのリレーションシップ管理者であり,毎年末に事業部門から厳しいアンケート結果を突きつけられるという。

 研究者を受け入れたIBCSの戦略コンサルティング部門,堀江俊郎パートナーは「生煮えでも美味いものがあるように,技術でも汎用となる前に,ある部分に適用すれば大きな効果を発揮するものがある。たとえ1年間先行しただけでも顧客から信頼を勝ち取ることができる」と,ODISの効果を期待する。

 IBCSに来た研究者は,概ね時間の半分を研究に費やし,残る半分を顧客とともに過ごす。「研究者の肩書きにこそ市場価値がある。IBCSに100%籍を移し,『昔は研究者だったコンサルタント』では他社との差異化ができない」(堀江パートナー)

 東京基礎研に発足したODISセンターが顧客に出張っている研究者を全面的にバックアップする。現在,某電機メーカーから受注した基礎研究所の生産性向上プロジェクトを,コンサルティングとチームを作り,研究プロセスの改善や評価システム,管理技術などをコンサルテーションしている。欧米では,JPモルガン・チェースやフィンランド航空,チャールズ・シュワッブなどで,IBM研究者が協力中だ。

「単なる宣伝」「自由な研究ができない」「何を今更」――ライバルの反応は様々

 研究者が顧客先に出ることに疑問を投げる向きもある。

 R&D投資額が既にIBMを上回る米Microsoftのビル・ゲイツ氏は「研究と製品を結びつけるために研究を管理する状態になり,潜在的な発見の目を摘み取ってしまう。自由な研究ができない」と,IBMのビジネス・ライクな研究バリュー・チェーンに反論する。Microsoftの基礎研は企業モデルではなく大学モデルを採っている。米HP(Hewlett-Packard)のサービス部門のヘッド,アン・リバモア上級副社長は,研究者の顧客への派遣はIBMの一種の宣伝だとし,結局顧客は高い金を払わされるとみる。

 しかし,NECや富士通は,IBMの試みを否定しない。NECは4月に研究開発グループと事業部門のインタフェースとなる開発研究本部を新設,ネットワークとソリューション分野に2つ発足させ,リレーションシップを強化した。事業部と研究部門の人事ローテーションを従来以上に活発化させる方針だ。

 基礎研3割,開発7割の富士通は,15年も前から研究開発者が顧客プロジェクトに参加している。そのため,IBMが研究分野でバリュー・チェーンを活性化させようとする動きに「今更」という評価を下す。しかし「ドクターでなければ研究者ではない」というIBMの基礎研が顧客指向を強めたことに対しては,長期的にみて脅威を感じるとしている。研究者をサービス事業の下で金に換えるIBM新戦略の波紋は大きい。

(北川 賢一=日経ソリューションビジネス主席編集委員)