いきなりだが,結婚したばかりの友人から送られてきた電子メールを紹介したい。このメールが届いたのは,7月下旬のこと。ちょうど記者が,日経コンピュータの8月11日号で「ICタグの真実」と題した特集記事を執筆している最中だった。


 ごぶさたです。最近よく記事で目にするゴマ粒チップについて聞きたいのですが,このチップを埋め込んだシールを作って自分の大切なモノに張っておくと,GPSなどの位置情報システムと連動して所在地が分かるの?

 実は,1週間前に奥さんからもらった誕生日プレゼントの定期入れを,定期や免許証と一緒に落としてしまいました。それで,ゴマ粒チップを使って発見できたら便利だなと思った次第です。(以下略)


 友人がいうゴマ粒チップとは,「ICタグ」を構成する部品の一つである。ICタグは,情報を記録するためのゴマ粒ほど小さいICチップとアンテナ配線からなる小型の装置。「リーダー/ライター」と呼ぶ無線通信装置を使って,ICチップの情報を読んだり,情報を記録できる。「RFID(Radio Frequency ID)タグ」と呼ぶことも多い。

 記者はこのところ“ICタグ”づいている。日経コンピュータの誌面やIT Proサイト向けに,毎号あるいは毎日とは言わないまでも,かなり頻繁にICタグの記事を書いている。というのも,日本,海外を問わず,ICタグを巡る動きが活発化しているからだ。上記の友人も,記者がそれだけICタグを取り上げているのを見て,メールを送ってきたのだと思う。

 記者はさっそく友人からの電子メールに返信することにした。「ゴマ粒チップで定期や免許証などを見つけられるようになったら便利かもしれないけど,現状ではまず無理」というのが内容の骨子である。その理由として,以下のことを挙げた。

●ICタグとリーダー/ライターの距離が数メートル以上離れると通信できない
●ICタグを追跡するには町中にリーダー/ライターを設置する必要がある etc.

 今回の友人とのやり取りで,「一般の消費者はICタグの技術をほとんど知らない」ことを改めて痛感した。同時に「消費者にICタグの技術が理解されない限り,ICタグが本格的に普及することはない」と思った。

ICタグ付き商品の不買運動が勃発

 多くの消費者はICタグを理解していない――このことを象徴するとみられる“事件”が,今年に入って欧米で2件発生した。いずれも,ICタグの普及を阻害しかねないほどのインパクトを持つ。

 一つ目は,7月に発覚した米ウォルマート・ストアーズによるICタグの実証実験の中止である。同社は上位取引先100社とICタグを使ったパレットやケースの管理を進めるのと別に,米かみそり大手ジレットと共同でICタグの実験をする計画だった。具体的には,ジレットが替え刃のパッケージにICタグを付けてウォルマートに納入。ウォルマートがリーダー/ライターを内蔵した棚にパッケージを陳列することで,在庫管理の精度向上や盗難防止の効果を検証する予定であった。

 だが,ウォルマートはプライバシ侵害を懸念する消費者を気遣ってジレットとの実験を取りやめた。ジレットの取り組みに精通している英レスター大学講師のエイドリアン・ベック氏は,「『商品を買って店舗を出た後も追跡される可能性がある』『プライバシが犯される』と考える消費者から強い反発が出ることを,ウォルマートは心配したのではないか」と証言する。

 もう一つは,イタリアの有名アパレル・メーカーであるベネトン・グループによる珍しい報道発表だ。ベネトンは4月,ICタグによるプライバシ侵害を指摘する消費者の声を受けて,「当社のブランド名で製造,販売した商品にICタグは付けていない」という趣旨の発表をした。

 ベネトンによる発表のきっかけは,オランダのICタグ・ベンダーであるロイヤル フィリップス エレクトロニクスによる報道発表だ。同社は3月に「ベネトンがサプライ・チェーンにおける商品の追跡管理に,フィリップス製のICタグを採用する」と発表した。すると,ある消費者団体が「追跡装置が付いたベネトン商品は買うな」と不買運動を起こした(関連情報)。この不買運動に反応した結果が,前記のベネトンによる発表につながった。

プライバシ侵害の可能性は低い

 ウォルマートとベネトンにおける“事件”は,ICタグによるプライバシ侵害を懸念する消費者の声が引き金になった点で共通している。実際,ICタグは欧米で,消費者の行動を追跡する「スパイ・チップ」と呼ばれることもある。

 では,ICタグが普及すると本当に個人のプライバシは侵害されるのだろうか。ICタグは本当にスパイ・チップなのか。記者は,ICタグ・ベンダーや主要な研究者,ICの実証実験を進めるユーザー企業の関係者に会うたびに,この疑問をぶつけてみた。その結果,「ICタグがスパイ・チップになる可能性は極めて低い」というのが記者が得た結論である。

 ICタグに格納できる情報の容量は,今のところせいぜい96~128ビット程度だ。ICチップ固有のIDと,企業および商品の識別番号,商品の流通経路といった情報のほかに,「誰がいつどこで買ったか」や「生年月日,趣味,購買履歴,勤務先,年収,家族構成」といった個人情報をすべて記録するには十分とは言えない。

 単に容量に制限があるだけでない。そもそも,ICタグに格納するのは基本的にバーコードと同じように「コード」化された情報である。コードを第三者に見られたとしても,その意味が分かる人はほとんどいないのではないか。

 そのICタグを利用する企業の情報システムに侵入して,当該コードに関連する情報を検索すれば,ICタグのコードにひも付けされた情報を特定できるかもしれない。その情報のなかに,顧客を特定できるような情報が含まれている可能性がないとは言えない。だが,そのようなことをするのは至難のわざだ。大抵の場合,企業は情報システムへの不正アクセスを防ぐために強固なセキュリティ対策を施しているからだ。

 ICタグの情報を第三者に盗み見られにくくする技術の研究も進んでいる。ICタグ関連の標準化団体であるユビキタスIDセンターは,ICタグと無線通信できるリーダー/ライターを限定する技術を持っている。ICタグとリーダー/ライターが互いを認証するための「カギ」を持っており,双方のカギが一致しなければ通信できない。こうすることで,第三者が手持ちのリーダー/ライターを使ってICタグの情報を読み書きできないようにしている。

 ユビキタスIDセンターは,ICタグとリーダー/ライターが無線通信する際に情報を暗号化する技術も開発済みである。仮に,第三者がICタグの情報を盗めたとしても,情報が暗号化してあるので内容は分からない。

消費者に安全性とメリットの啓蒙を

 記者は,ウォルマートとベネトンにおける事件の本質は「ICタグの技術が消費者に正しく伝わっていない」ことにあるとみている。

 誤解を招かないように言っておくと,消費者の理解不足だけが理由ではないし,技術者や企業,標準化団体が今後もICタグのセキュリティ対策を追求すべきなのは間違いない。ICタグがスパイ・チップになる可能性は低いとはいえ,プライバシ侵害を100%防止できる保証がないことも事実だからである。

 このことを踏まえたうえで,ICタグの技術を消費者に分かりやすく知らせたり,ICタグが普及することで消費者が得られるメリットを説明することの大切さを,ここで強調しておきたい。消費者がICタグの“正体”を理解し,そのメリットを認めれば,プライバシ侵害を防げる保証が100%でなくても,ICタグは受け入れられるはずだ。通信販売やクレジット・カードが広く普及しているというのが,その根拠である。

 消費者は通信販売で商品を購入したりクレジット・カード会社と契約する際に,住所や年収などの個人情報を提供しなければならない。通信販売やクレジット・カードは,ICタグに格納する商品情報よりも機密性が高い個人情報を扱うわけだ。にもかかわらず,どちらも世界中で浸透しているのは,「家にいながらにして欲しい商品を入手できる」,あるいは「キャッシュレスで買い物ができる」といったメリットの大きさを消費者が認識しているからだ。

 ICタグは,通信販売やクレジット・カードに負けないくらい大きなメリットを消費者に提供できる。例えば,消費者は商品を今より安く手に入れられる可能性がある。ウォルマートインターナショナルホールディングスのジェフ・マカリスター副社長は「ICタグによって物流にともなうコストを削減できれば,その分を商品価格に反映して顧客に還元する」という。

 食品を安心して購入できるといったメリットも期待できる。原料の生産地や農薬使用の有無,品質検査の結果,輸送トラックの荷台や倉庫の保管温度など,個人情報とはいっさい関係がない商品情報をICタグに格納して,商品パッケージに付けておく。消費者はリーダー/ライターをICタグにかざして品質情報などを確認したうえで,商品を購入できる。

 ちなみに,記者が担当した日経コンピュータ8月11日号の特集「ICタグの真実」では,ICタグを導入する際に直面しがちな問題点を指摘した。消費者への啓蒙活動が足りないことに端を発するプライバシ問題のほかにも,ICタグの普及を阻む壁はたくさんある。しかし,壁を乗り越えることができたとき,企業や消費者は計り知れないほどのメリットを享受できると信じている。

(栗原 雅=日経コンピュータ)