(本記事は,なぜ日本で独自技術は生まれないのか(上)の続編です)

大企業主犯説――技術者を無駄遣いする大組織――


【読者の意見】
 「日本に独自技術があるか」という問題について考えてみると,日本には独自技術を生み出せるような「技術系職場環境」がどれくらいあるのかという疑問が出てきます。技術系職場環境とは,国土の環境や一般の作業環境とは別の話です。

 私の考えでは,日本の技術系職場環境は,技術者を無駄遣いするものです。まず,本来優秀な日本の技術者の無駄使いを最小限にすることです。そうすれば,1億人以上の人口と長い平均寿命を持つ日本においては,技術者数の増加による相乗効果も合わさって,独自技術が次々と生まれてくる環境ができあがるのではないかと考えます。

 さまざまな場面で構造改革が叫ばれてはいるものの,縦に深い組織階層とセクショナリズムという分厚い壁を崩しきれない多数の部署を持った大組織が,まだまだ多く見受けられます。このような大組織では,課(またはグループ)内でのとりまとめ,課長の同意,多数の関係部署との調整,部長への報告,関係部長の了解,副本部長/副事業部長への報告,本部長/事業部長報告,さらに複数の関係役員を通して,専務・社長・会長に至る,という果てしない道のりがあります。このことが技術者に大量かつむなしい労働を強制しています。

 実際に組織の頂上に至る仕事は,ごく一部に限られるかもしませんが,その中腹いや登山口あたりまでであっても膨大な事務処理に追われているのが,大組織における技術系職場の実態ではないでしょうか。技術者が本来行うべき仕事をやる時間がほとんど取れない,思考が集中できない環境が優秀な技術者をむしばんでいるように思えます。

 大学・大学院の技術系学科を卒業した優秀な人材が,日本の常識として,優良大企業を目指し,晴れて採用,「技術系」職場への配属されたとします。しかし配属された職場では,技術の教育訓練もほどほどに,大企業ならではの,関係部署との調整やら,協力会社への発注などの,手配師のような事務処理に忙殺される日々が続くことになります。

 気が付くと優秀な技術者であったはずの人たちは,技術的スキルアップをしていない自分に気づきます。そして活力を失いながらも大企業に安住しているか,大企業内での栄えある昇進のために日夜事務処理に骨身を削りながら生きているか,いずれかの状態に陥っているのではないでしょうか。

 ここで問題点は,優秀な技術者,正確に言えばそのたまごの多くが大企業を目指してしまうことと,大企業の組織構造改革が進まないことです。特にもっとも根本にあるのは組織の構造改革です。これは,プロジェクトマネジメントができない,下部組織に権限委譲できない,と言い換えてもよいでしょう。

 大企業のスケール・メリットは否定しませんが,複雑な組織構造は社会の悪です。業務の大半が組織のための仕事になっています。例えば,内部報告書作成,契約書類作成,ISO対応,管理という名の冗長業務といった具合です。社会に貢献するための技術的な仕事,すなわち分析,デザイン・設計,論文執筆,技術ドキュメント作成,特許出願,規格化・標準化作業は,全体の仕事のほんの一部でしかありません。

 解決策として,技術系職場実態を評価する定量的な指標があれば,技術者の無駄使いを減らすことができるようになるのでないかと思います。例えば,「社会に貢献するための技術的な仕事量/技術系職場人数」という指標はどうでしょう。こうした指標が公開されていくと,優秀な人材がダメな大組織構造の企業へ流れることを抑えられるようになるかもしれません。

 また,今の日本の慣習でいきますと,企業は優秀な人に対する報いとして,その人を昇進コースに乗せようとする傾向にあります。ノーベル賞を受賞された田中さんのように昇進を断れる人は,そう多くないでしょう。通常の組織で昇進することは,技術的な仕事ができなくなることを意味します。ですから,優秀な技術者に昇進以外の社会的地位を与える仕組みも必要でしょう。


 一読して「なるほど」と思った。こうした現場実態の報告は,当事者でないとなかなかできない。この方の意見を読んで,「会社のせいにするな」とか「雑用もこなしてこそプロのエンジニア」という方もあろう。だが,「雑用を減らすことを考えるのがエンジニア」とも言える。

 とりわけ,技術系職場の実態を測る指標のアイデアは面白い。技術系にかかわらず,社会に貢献する仕事量を計測できるともっと面白いだろう。記者の仕事のうち,雑用と世の中に貢献する仕事を分けてみるとどうなるであろうか。

 この読者は,ある製造業のエンジニアで本業のかたわら技術士の資格をとられた勉強家である。いただいた一文の題名は,「技術者を無駄遣いにする大組織」であった。考えてみると,今回のテーマは,ITに限ったことではない。BizTechのほうでも話題にしてみようと思っている。

 以上の意見を筆者の情識欄で5月下旬に順次紹介した。これらを読んで,総括的な意見を送ってきた読者があった。最後にそれを紹介する。

司馬遼太郎氏が指摘するGとF


【読者の意見】
 司馬遼太郎さんの随筆集「この国のかたち」の中に「GとF」と題する稿があります。文庫版では第2巻に収録されています。この中で書かれていることをかいつまんで言ってみます。

 「キリスト教のような一神教の国では,神(God)は絶対的な存在であり,Godという絶対虚構を中心にした営みを持っている。ここでいう虚構とは,日本でよく『あの部分はフィクションなんです』などと使われるfictionではなく,大文字のFとして考えるべきもので,文学ではドストエフスキーの『罪と罰』やカフカの『変身』などがFにあたる。これに対して中国や日本は相対的世界なので絶対虚構はなじみにくく,小説もFとはいえるものは少なく,特に日本の私小説は,多少のfを交えつつも現実的なことがごく自然に書かれている」

 司馬さんがこうはっきりと主張しているわけではないので,私なりの補足を交えています。ところで後に続く部分が,日本の独自技術問題に関連しているので,全文を引用してみます。

 「ただ,いろいろの思いを去来させつつのべた。その思いの最大のものは,GとFの土壌から科学がおこったということも入っている。その後も,科学原理のほとんどが,このF土壌から発見された。一方において当方は,技術の分野で堪能だといわれている。技術というのは汎神論的なこまごまとしたリアリズムの上に立っているから,そのせいで得意芸なのかとも思えたりするが,このことは私の能ではないからさしひかえる」。

 独自技術は科学原理に近い面があるので,壮大なアーキテクチャといったものは,日本では育ちにくいということを示唆しているようです。

 ところが,最近になって気づいたことがあります。私はマンガやアニメをあまり見ないのですが,マンガやアニメの世界では,壮大な構想を持ちながら緻密な設定もなされていて,しっかりした虚構の世界を表現している,Fとも言える作品が少なくないようです。このことは,「機動戦士ガンダムSEED」を見ていて気がつきました。ガンダムと「罪と罰」を比べるのは妙ですが,ガンダムは十分Fと言える作品だと思います。

 考えてみれば,SF的なものは現実を描くことではできないので,壮大な構想を固めておくことは当然といえるでしょう。SF小説にもFがあるかもしれません。マンガ,特にアニメはチームを組んで制作されることと,まずキャラクタ・デザインをする必要があるので,最初から壮大にして緻密な構想が求められ,しっかりした虚構の表現になりやすいのでしょうか。

 なんだアニメの話かと思われるかもしれませんが,少なくとも日本でもFが生まれつつあるということは,科学原理の発見や独自技術が生まれやすい土壌ができつつあるのではないか,と感じています。

 Fの土壌ができるには,やはり宗教観やお国柄が変化しなければならないはずですが,短期間でお国柄が変わることはあるのでしょうか。谷島さんは否定的ですが,私は「ある」と考えます。実例としてこれも「この国のかたち」に書いてあるのですが,江戸時代の各藩は多様性に満ちていたのが,明治になって急速に均質化したそうです。もちろんお国柄のベースになる部分はそう簡単には変わらないでしょうが,上層の部分が変わるだけでも大きな変化でしょう。

 実際にどのように変化していくのか。西洋では長い時間をかけて,絶対的な神の存在から絶対的な理論を求める論理的思考が産まれ,それが科学技術の発展をもたらすといった経過をたどってきました。これが日本では,科学技術の発展の必要性が論理的思考の必要性につながり,ひいては絶対的なものを求める思考への慣れといった経過が急速に起こるのではないでしょうか。その結果として,絶対虚構の土壌が少しずつできていくと考えます。

 さらに,もともと日本人は宗教心が薄いので,多神教とは言っても今や八百よろずの神を信じる人はいず,神も仏も一緒に考えるようになってしまった結果,かえって一神教に近くなっているのではないでしょうか。これは極端な見方かもしれませんが少なくとも,昔と比べて個人を重視するようになっている,という変化はたしかに起こっています。ですから,あと20年もすれば,日本発の独自技術が世界に貢献する日が来ることを十分期待できると思うのです。

 しかし,日本が独自技術を生むには,まだまだ変わらなければならない点があります。まず,広さの問題ですが,広大な環境であるほどいいのなら,日本の企業でも中央研究所やそう呼ばれていたものは,少しは広大な環境にある場合が多いので,多少なりとも独自技術の面で貢献できていてもよいはずですが,現実にはなかなかそうはなっていません。よって,私は広さは関係ないと考えます。

 それよりも,壮大なことを思いつくには,雑事から解放される時間を持つことにより,たとえ心象風景の中であっても,広大な世界の中に落ち着いて身を置くことができれば,十分ではないかと思います。壮大で緻密な構想をまとめるには,集中できるまとまった時間が必要です。

 他の読者の方が指摘しているように,教育の問題もあります。企業における活動目標や評価の問題もあると思います。アーキテクチャだの,フレームワークだのといっても,形の見えないものはなかなか理解されず,スケールは小さくても何かすぐに動くものが求められる,といった風潮が企業内にあります。これを改める必要があります。


 筆者は,機動戦士ガンダムSEEDを見ていない。よって,「(アニメの世界で)Fが生まれつつあるということは,科学原理の発見や独自技術が生まれやすい土壌ができつつあるのではないか」については,そうであればよいと思うが,そうなっているかどうか判断できない。

 ただし,この方は全体の論議を実にうまくまとめている。結局,日本の土壌そのものと,その土壌の変化をさまたげる教育と企業の仕組みに課題あり,ということになる。筆者は未来永劫,日本はGの国にはならないと思う。ただし,日本が付き合う諸国,とりわけ西欧は今後もGとFの国々である。そしてコンピュータはGとFが生みだしたものである。つまり,Gがない我々がいかにして,GとFの世界と付き合うかが問題となる。

【追伸】
 6月11日に「なぜ日本で独自技術は生まれないのか(上)」を公開したところ,多くの方から読者コメントおよび電子メールをいただいた。どうもありがとうございます。特に印象に残ったのは,日本で独自技術は“生まれない”のではなく“育たない”のではないか,という趣旨のコメントを複数の方からいただいたことだった。

 「独創性のあるものは日本でも毎日生まれていると思いますよ。ただ,すぐに殺されてしまうだけで」「生まれても足を引っ張って自ら潰してしまうというのが正解ではないでしょうか」「日本人は独創的である。ただ,独自性をアピールするのが下手なだけ」などである。

 独自技術を“育てられない”原因は,「経営者の質に尽きると思う」というご意見もあった。そして,「世界中に広まっていながらそれが国内では正当に評価されない・・・そういう意味ではマスコミの罪は重い」。こうしたご意見にどう応えていくべきか,常に考えたい。

 ありがたいことに,「谷島さんには日本発の技術を発掘してどんどん世に広めることもしてほしいです」との激励もいただいた。ご期待に沿えるよう,努力したい。

(谷島 宣之=ビズテック局編集委員)

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