今回は、記者の眼ならぬ、「読者の眼」をお送りする。以下の一文の大半は、筆者のところに寄せられたIT Pro読者の意見で構成されている。より正確に言うと、筆者のページである「情識」読者による意見群である。

 筆者はかねてから、筆者を「読者の意見の増幅器」として使ってほしいと要請してきた。今回の原稿はその実践の一例である。つまり本稿の趣旨は、読者の意見を紹介し、さらに多くの読者があれこれ考えるきっかけを提供することにある。

 テーマは、「日本において独自の技術を開発し、世界に発信することはできるのか」というものだ。ここで独自の技術とは、これまでにない新しい発想の基礎技術やそれに基づく製品を指す。筆者の問題意識は、なぜ日本発の独自技術が少ないのか、というものである。

 日本発の技術が少ない点について、IT Proの読者からはあまり反論がないと思う。マイクロプロセサ、オペレーティング・システム、データベース、開発ツール、開発言語といった基盤となる部分で、世界で使われている日本発の技術や製品はほとんどない。業務用アプリケーションの分野を見ても同様である。サーバー製品を見ても、日本製品の存在感はまるでない。

 さらにIT以外の領域を見ても、日本発の技術はそれほど多くはない。そもそも基礎技術はもちろん、それに基づく試作品の開発においても日本の貢献度合いは少ないと言われている。ただ、日本以外のだれかが考え、だれかが試作品を作った後の、量産化の段階になると日本の出番である。実際、日本企業が量産化に先鞭(せんべん)をつけた分野はたくさんある。

 基礎研究も、試作品作成も、そして量産化もすべて重要である。日本はこれまで通り、海外のアイデアを量産品に結びつける応用技術で世界に貢献していけばよく、日本発の技術などにこだわることはないのかもしれない。それでも、もうちょっとは日本発の技術があってもよいのではないか、と筆者は思う。

国土狭隘説

 5月19日の夕方、産業技術史を研究している方と会った。その人に、「日本で独自の技術を開発し、世界に発信することはできるか」と質問したところ、「残念だが日本ではできない」という答えが返ってきた。

 興味深かったのは、その理由である。「砂漠の真ん中に住めば、日本人でも開発ができるかもしれない。とにかく最低でも周囲1キロ以内に人がいない環境にしないとダメだ」。この理由を少し解説すると、日本のように狭く、しかも人がたくさんいてうるさいところでは、独創的なことを考えにくい、ということである。

 実は筆者も、海外出張をさせてもらったとき、某社や某社の研究所を訪問して同様のことを痛感した。とにかく米国は広い。見渡す限り、だれもいないと、アーキテクチャとか、フレームワークとか、世界標準ということを妄想、ではなかった、空想するのではないか。

 日本では、そんなことを言い出しても、相手にされないどころか、「真面目に仕事をしろ」と言って足をひっぱる人が必ず出てくる。独自の発想を持った人からすれば、どっちが真面目だと言い返したいところである。とはいえ、いいつくされたことかもしれないが、日本はいまだに村社会なので、近所付き合いが大事だし、突拍子もないことを言う人は煙たがられる。空間の格差は、研究開発にとどまらず、日本と米国の根本的な文化格差につながっていると思われる。

 日本で独自技術が生まれない理由として、以上の「国土が狭い説」を5月19日付の情識に掲載した。すると読者から続々と意見が筆者のもとへ寄せられた。以下に読者の説を紹介し、筆者のコメントを付け加える。やや長大な意見もあるが、原則としてほぼ原文に近い形で掲載する。

時間不足説


【読者の意見】
 日本のように狭く、しかも人がたくさんいてうるさいところでは、独創的なことを考えにくいとは、なるほどと実感できます。ただ、実際は広さよりも、集中できるまとまった時間がとれないことが、思考ができない要因になっていると思います。本当の仕事は、邪魔が入りにくくなる5時か6時から始まるというのが実態です。これは宴会という意味ではありません。でも、すぐに疲れてしまってやっぱり集中できない結果になりますが。

 村社会と言う社会的要因も独創的な発想を阻害していると思います。ですが、日本もだんだん欧米的になっていくでしょうから、20年後ぐらいには日本発の独自技術に期待しましょう。もっともそれでは遅いでしょうか。


 うまく説明できないものの、やはり広さは関係していると筆者は考える。見渡す限り、人っ子一人見えない環境のほうが当たり前の国に住んでいると、なにか壮大なことを思いつくのではないか。日本のようにどこへ行っても人がうじゃうじゃいる国とは、違った発想や思想が生まれるであろう。素人考えだが、この広さの差は宗教の違いにも影響していると思う。

 「日本もだんだん欧米的になっていくでしょうから、20年後ぐらいに日本発の独自技術に期待しましょう。もっともそれでは遅いでしょうか」と書いてこられた点についてはこう思った。まず、日本が欧米的になることは今後もありえないと筆者は考える。世界を見渡しても、お国柄が変わったという例を見ないからである。仮に日本が欧米的になったとしたら、それは国名が日本であっても、もはや日本ではないだろう。

教育問題説


【読者の意見】
 導き出せる最善の結論の一つは、初等・中等の教育を変革することだと思います。空間の要素は否定はしませんが、人間にとって把握できる広さを考えると、例えば日本でも過疎地域は、広大な面積をもつ某国と変わりありません。また、仮に独創的な発想を持つとされる諸国を分析すると、多くの発想は都市部からのものであるかもしれません。日本の場合、都市でも過疎地域でも、画一的な統制教育がなされていること、しかもそれが競争原理を忌避するものであることが、この問題の原因であると考えます。

 欧米では、教育を統制するなどという発想はありません。例えば米国で教育省なるものができたのは古いことではありません。確か1980年代だったと思います。つまり、それまではなかったわけです。しかも教育省の設立理由は、事務的合理化でしょう。

 また、独創的な発想というものは、「まったくお初」のものであっても「まったく降ってわいてくる」ものではなく、相当な情報のインプットがあって可能になるものです。現在の日本は、バブルのころからかどうかは知りませんが、何でも短期的に効果を求める傾向があります。何かを創りだすためには膨大な情報のインプットが必須の要件ですが、そのための「努力」をしているとは思えない。ここがもうひとつの原因です。つまり、甘えの症候群ともいうべきものです。実際に危機感をもって日々の社会生活を送っている人がどれほどいるでしょうか。どこでもいいですが、例えば、電車の中を観察しているとよく分かります。

 ただし私は悲観していません。日本人は元来、勤勉です。また、お国柄は変わらなくても、社会のしくみは、グローバル化することは必至ですから、我々は、「日本村」の中に閉じこもっているわけにはいかなくなります。日本の良さを活かしつつ、グローバルに対応するための教育が必要です。

 私は、大学や大学院から改革しても遅すぎると思っています。初等・中等教育を対象に改革を考えることを皆、敬遠するのですが、そうした姿勢自体が問題だとおもいます。ここからオープンにしないといけません。


 この読者は問題の所在を指摘し、なおかつ解決策の一端まで書かれている。こうしたご意見をいただくと誠にありがたい。確かに教育の問題は大きいだろう。例えば、小学校で現在使われている教科書を見ると、なかなか恐ろしい内容である。

 ただし、「そうだそうだ、教育が悪い」と言って納得してしまうと、この意見を書かれた読者の本意ではなかろう。この読者は、「危機感をもって自らに情報をインプットすべく努力しよう」と主張されているからだ。

 最近、大手メーカーの経営者を引退された方からこんな意見を聞いた。「日本の教育は小学校から大学まですべてひどい。私も機会があるごとに批判を述べてきた。しかし最近は考えを変えた。すべてを教育のせいにする安直な意見ばかり目につくからだ。社員を教育しない企業、勉強するつもりがない社員。これらを学校のせいにすることはできない」

日本人同質説


【読者の意見】
 ちょっとうろ覚えですが、「独創的な発想」に関連して、こんな記事を読んだことがあります。以下は記事の通りではありません。意訳です。欧米は地続きであるため、簡単に他人に支配されやすい。これは物理的にも、思想的にもです。そのため、自分の考えを他人に共有させるために、簡単につぶされることのないような理論的なタフさや骨太さが求められる。ここでは思想や発想のことに限定します。中国やインド、欧米など、主に平べったい土地に今日まで残る宗教や哲学や思想があるのは、数千年もの間、他の宗教や哲学と生き残りをかけて勝ち取ってきた証なのだ、と。

 ここからは私個人の記述です。日本は小さい島国の割にたくさんの山や谷、川があって、自然と他のグループと住み分けることができました。ということは、無理に外部に撃って出るさえしなければ戦う必要がなかった。もしくは閉じこもって戦いを避ける、逃げ続けることができた。ここで欧米にも山や谷はあるぞっというツッコミは勘弁してください。

 少し脱線しますが、似ているもの同士ほど、いがみ合い、もしくは競争します。自分が消えてしまう、あるいは隣人に同化してしまうことへの恐怖が働く、とでもいうのでしょうか。

 日本人は、他人と大まかな部分での同化を心地よいと感じる一方で、ちょっと違うということに心を砕きます。ブランド・バッグなんかいい例でしょう。日本人が根本的に他人と違うことを目指すのは、自分を偽ることにつながるし、疲れるのではないかと思います。私はよく、「ズレてる」と言われて、そのつど、「普通になろう、普通になろう」と悪戦苦闘していた時期がありました。今ではそんな無駄な努力はしません。


 「簡単につぶされることのないような理論的なタフさや骨太さ」。唐突だが、欧米メーカーのIT関連製品や技術を見たときに、筆者はこうした感想を持つことが多い。たとえば、ドイツのSAPの業務アプリケーション群がそうである。また、マイクロソフトの.NETもそうである。IT Pro読者の中には、マイクロソフトを嫌いな人も多いかもしれない。ただし、あの「自分のアーキテクチャこそがベストである」という強烈な姿勢は、「簡単につぶされること」がないと思う。念のため付け加えると、ここで言及しているのは、SAPやマイクロソフトの姿勢についてであり、製品の良しあしではない。

(谷島 宣之=ビズテック局編集委員)