2002年12月末に経済産業省が「ITスキル・スタンダード(ITSS)ver1.0」を発表した。日本で初めての職業分野別の「スキル・スタンダード」である。

 「スキル・スタンダード」という言葉を聞いてもピンと来ない人が大半かもしれない。それもそのはず。日本ではこれまで,職業分野別に「職種ごとの仕事の内容」と「その職種に必要なスキル(技能)」を定義した「スキル・スタンダード」というものが存在しなかったからだ。

 「いや,IT分野では情報処理技術者試験センターの情報処理技術者スキル標準があるではないか」という人もいるかもしれないが,情報処理技術者スキル標準は基本的に「情報処理技術者試験」の区分に則っており,ITの職業分野全体を網羅したものとは言えない。

欧米では,国が率先してスキル・スタンダードを策定

 欧米に目を移せば,この「スキル・スタンダード」は結構あたりまえ。しかも,国が率先して各職業分野別の「スキル・スタンダード」を策定している。

 例えば英国では,Accountancy NTO(会計分野),e-skills UK(IT分野),Publishing NTO(出版分野)などの職業分野ごとにNTO(National Training Organaization:職業訓練機構)と呼ぶ組織があり,これらのNTOが各職業分野の仕事の内容を定義した職業標準(Occupational Standard)を策定。この職業標準に基づいたNVQ(National Vocational Qualification)と呼ぶ職業分野ごとの資格制度を実施している。

 また,IT分野のNTOであるe-skills UKは2001年に「SFIA(Skills Framework for the Information Age)」と呼ぶIT分野向けの「スキル・フレームワーク」も作成している。これは,IT分野で働く人たちの職種と仕事の内容および職種ごとの7段階のレベルを定義したものである。

 米国でも同じだ。IT分野向けのスキル・スタンダードとしては,NWCET(National Workforce Center for Emerging Technologies)と呼ぶ組織が作成した「Skills Standards for Information Technology」があり,コミュニティ・カレッジのカリキュラム作成などに活用されている。

 なぜ諸外国では,職業分野ごとのスキル・スタンダードを作っているのか。それは「人材育成」こそがその業界の活性化につながる,と考えているからだ。その職業分野ではどんな職種(キャリア)があるのか,その職種にはどんなスキルが必要なのか,その職種にはどんなキャリアパス(レベル)があるのか,レベルを上げるためにはどんなスキルが必要なのか――。まずこうした「基準」を作り,その基準に沿って教育を実施したり企業内訓練を行う。

 働く人たちもこの基準を参考にしながら自分のキャリアを考え,そのためのスキルアップに励む。評価や報酬の透明度も高め,これらによってその職業分野の人材のレベルを向上させる。これこそが,各国の「スキル・スタンダード」の狙いである。

職種とレベルごとのスキルを詳細に規定

 経済産業省が作成したITSSは,コンピュータ・メーカーやシステム・インテグレータ,パッケージ・ベンダー,ソフト開発会社などの情報サービス産業における「職種」と「専門分野」を定義し,職種・専門分野ごとに必要なスキルや知識,経験を詳細に定義したものだ。

 11の職種と38の専門分野を定義しており,それぞれについて7段階のレベルを設定。レベルごとに必要なスキル,経験,知識を詳細に定義している。経済産業省では,技術トレンドやビジネスのトレンドに合わせてITSSのバージョンアップも今後継続的に行う計画である。現時点では,IPA(情報処理振興事業協会)でITSSのメンテナンス作業を行う予定のようだ。ITSSの中身については,経済産業省のWebページをぜひ参照していただきたい。

 言うまでもなくこのITSSも,「IT分野での人材育成」が狙いだ。というのも,日本のITエンジニアのレベルは「欧米はもとより中国やインドと比べても平均するとかなり低い」という問題意識があるからだ。むろん,ITエンジニアのレベル向上は大学でのIT教育も含めて議論する必要があるが,これまで日本ではなかった「スキル・スタンダード」が策定されたのは,ITエンジニアのレベル向上のための大きな一歩と言える。

ITSSの活用法は?

 ITSSの活用方法としては以下のようなことが考えられる。

 まず,システム・インテグレータやソフト開発会社がこのITSSをベースにして自社のキャリアパスや専門職制度,研修制度を整備できる。大手のコンピュータ・メーカーやシステム・インテグレータは,すでに独自にこうした制度を制定しているところが多いが,中小のITベンダーではまだまだ遅れている。ITSSを参考にすることで,こうした制度を作成しやすくなるメリットは大きい。

 教育会社もITSSに沿ったカリキュラムを整備できる。これにより,ITSSに沿った体系的な教育が提供されることになり,教育会社同士でカリキュラムを相互補完することも可能となる。

 ITエンジニア個人にとっては,「IT業界にどんなキャリアパスがあるのか,またそのキャリアのためにはどんなスキルが必要なのか」が明確になる。これによって,自らのスキルアップの計画を立てやすくなるメリットがある。ITSSで定義された職種や専門分野,レベルごとの「エンジニアのコミュニティ」作りが醸成される可能性もある。

 ユーザー企業がITベンダーにプロジェクトを発注するときにも,このITSSに沿ったエンジニアのレベルを要求するようになるかもしれない。そうなると,エンジニア個人のスキルに関係のない「人月」で費用が決まる習慣が改善されることになる。ITベンダーが開発メンバーを選ぶときや,人材募集の際にもこのITSSのレベルが使われるようになる可能性もある。そうなると,これまでよりも効率的に人材リソースを集められるようになる。

日本のIT業界を変革する「突破口」に

 注意してほしいのは,ITSSは情報処理技術者試験のような「資格ではない」ということだ。別に誰もレベルの認定はしない。そういう意味ではIT業界共通の「辞書」のようなものである。それぞれが,それぞれの立場から自由に活用すればいいのである。

 とかく,経済産業省の施策というだけで「眉につば付ける」人が多いのは確かだ。「Σ(シグマ)計画」の失敗など,記者自身もこれまでの経済産業省の施策にはあまり良い印象は持っていない。しかし,今回のITSSについては,IT業界にとってとても良いことだと率直に思う。利権がからむわけでもないし,利用するのに料金が発生するわけでもない。純粋に利用したい人だけが利用すればいいのである。

 もちろん,このITSS,IT業界に普及しなければ意味がない。そのためには,IT業界全体が真剣にITSSの活用に取り組む必要があるだろう。もしそうでないなら,日本のITエンジニアのレベルの低さやスキルに関係ない人月単価,とにかくエンジニアを派遣すればいいと思っている中小ソフト開発会社の体質といった日本のIT産業の「悪慣習」はいつまでたっても無くならない。

 ITSSを活用すれば一気に解決するとはもちろん言わないが,少なくともその「突破口」にはなるはずだ。

(平田 昌信=日経ITプロフェッショナル副編集長)