ADSL(asymmetric digital subscriber line)の高速化を巡り,ADSL事業者が丁丁発止やりあっている。NTTグループ以外のADSL事業者3社――アッカ・ネットワークス,イー・アクセス,ソフトバンク・グループのBBテクノロジー――が,そろって8Mビット/秒を超える伝送速度のADSLサービスを提供する計画を明らかにしたのである。その中でも物議をかもし出しているのが,BBテクノロジーが採用を明らかにした「Annex A.ex」である。

 Annex A.exは,ITU-T(国際電気通信連合)勧告G.992.1の北米向け拡張仕様Annex Aをベースとした技術。下り方向の伝送速度を12Mビット/秒まで高速化するというものだ。BBテクノロジーはすでにフィールド実験を進めており,8月にも正式なサービスとしてユーザーに提供する考えである。

 これに対して異議を唱えたのがイー・アクセス。BBテクノロジーの事業の進め方について「手続き上問題がある」と,総務省に意見書を提出したのである。ここでイー・アクセスが引き合いに出したのが,情報通信技術委員会(TTC)が改訂作業を進めている「スペクトル管理」標準。スペクトル管理とはあまり聞き慣れない言葉だが,高速版ADSLがサービス提供されるかどうかのカギを握っている規格である。

 今回は,このスペクトル管理の意義と是非,さらには12M版ADSLサービスの行方について見ていきたい。

電話線を利用する際の「道路交通法」が必要に

 スペクトル管理標準とは,TTCが2001年11月に規格化したJJ-100.01「メタリック加入者線伝送システムのスペクトル管理」のこと。これは,電話線を使うさまざまな通信サービスが,相互に悪影響を及ぼさないようにするための規格。電話線を利用した通信サービスをNTTだけでなく複数の事業者が提供するようになったことで求められるようになったルールである。

 「ISDNとADSLの間で発生する漏話の影響で,お互いの通信に支障が出る」という議論から,実際にその影響を測定し,決められたものと言える。いわば,複数の事業者が安全に自動車を走らせるために必要となる「道路交通法」のようなものだ。

 ここで,電話局から各家庭に引かれている電話線の構造について,ちょっとおさらいしておこう。電話線1回線は2本の銅線で成り立っている。その2本の銅線は,別の家庭に引かれている2本一組の回線と一緒に束ねられて,合計4本の銅線からなる「カッド」という単位を構成する。このカッドを単位にさらにどんどん回線を束ねていくことで,NTTの電話局につながる加入者ケーブルになる。

 この構成からもわかるように,他の通信の影響を最も大きく受けるのは同じカッド内にあるもう1本の回線になる。そこで,TTCが決めるスペクトル管理の標準では,同じカッドの中に入れてもいい組み合わせと,入れてはいけない組み合わせを規定しているのである。

 2001年11月に決まった第1版では,加入電話,ISDN,1.5Mと8MのADSL(国内仕様のAnnex Cだけでなく北米仕様のAnnex Aも含む)を優先度の高い第1グループに規定した。この第1グループの通信サービスなら,同じカッド内に入れても構わないというわけだ。一方,SSDSL(1.5Mビット/秒以上の対称速度のDSL技術,ITU-T勧告G.992.1Annex H)やSHDSL,SDSLといったDSL技術は第2グループに分類され,電話を除く第1グループの通信サービスと同じカッド内には収容できないことに決まった。

 ADSLやISDNと同じカッド内に収容できないということは,それだけサービスを提供する上での制限があるということ。全国のADSL回線は6月末で330万に到達。ISDNに至っては3月末時点で1000万回線以上ある。このように普及してしまったサービスと同じカッド内に収容できないということは,事実上,全国規模のサービスとして提供できないのと同じことになるのだ。

では12Mビット/秒のADSLはどちらに入る?

 現在TTCでは,スペクトル管理標準の改訂作業を進めている。目的は,BBテクノロジーやいくつかの地方自治体で採用実績のある長距離用のDSL技術「ReachDSL」と,アッカ・ネットワークスが今秋にもサービス開始を予定している「C.X」を分類することだ。ただし,BBテクノロジーが8月に始めようとしているAnnex A.exはリストに含まれていない。イー・アクセスが問題視したのは,まさにこの点にある。

 Annex A.exという技術は,下り方向の伝送速度をアップさせるために,これまでのADSLが上り方向の伝送に利用していた周波数帯域の一部を下りにも使う。上り方向と下り方向で周波数が重なる部分は,エコー・キャンセラという技術で自分が受信する信号だけをピックアップする。考え方はアッカが採用予定のC.Xも同じだ。C.XがAnnex A.exと違うのは,G.992.1のAnnex Cをベースとしている点だと考えればいいだろう。

 これらの技術では,これまで下り方向で使っていなかった周波数帯域に信号が流れるので,同じカッド内にあるもう1本の回線でADSLを使っていると,そのノイズから上り方向の伝送速度が低下すると懸念される。

 ソフトバンク・グループの記者会見では,Annex A.exの干渉について「最も影響を受ける自らの上り回線への影響はほとんど認められなかったので,他方式のADSL回線への影響もほとんどないと考える」と言っているがこれは誤り。

 自らの回線では,受信した信号から自分が出した信号(送出信号)を差し引くことで送られてきた信号を抽出できる。これがエコー・キャンセラという技術なのだが,キャンセルできるのはもちろん自分が送った信号だけである。自らの回線の上り信号に影響が出ないのは当たり前。となりの回線でやりとりされている信号,しかも周波数帯域が重なった部分の信号に関しては,エコー・キャンセラでは取り除けないので,ノイズとして悪影響を及ぼすのである。

 TTCの検討の結果,こうしたノイズの影響が大きいと判断されれば,Annex A.exやC.Xは第2グループに分類され,全国的に普及するという道筋は断たれることになる。ユーザーの目に触れることなく消えていく可能性も否定できないのである。スペクトル管理標準の第2版は8月末に草案が固まり,11月に総会で決まる予定である。

 ちなみに,アッカ・ネットワークスとイー・アクセスの両社は,とりあえず周波数帯域を拡張しない方法で8Mビット/秒ADSLの速度向上を図る。アッカはADSLモデムのファームウエアをアップグレードすることで10Mビット/秒の速度を実現するサービスを7月24日に始める。その上で,周波数帯域を拡張するC.Xを採用し,秋ころには12Mビット/秒まで速度を上げたサービスを開始する計画である。イー・アクセスは,周波数を拡張することなく12Mビット/秒を実現するサービスを8月から受け付け,10月から提供する予定だ。

ユーザー・メリットを盾にルール無視を正当化?

 スペクトル管理標準には,「標準システム(第1グループおよび第2グループ)のリストに入っていない伝送方式は,標準システムに対して影響を与えないかどうか(中略)技術的な確認を行った上で,導入が検討されるべきである」と決めている。

 つまり本来であれば,Annex A.exも,実際にフィールドで採用する前に,他のADSL規格やISDNなどに影響を与えないかどうかを検証する必要がある。前述の通り,「最も影響を受ける自らの上り回線への影響はほとんど認められなかった」というだけでは,影響を与えないと言い切るにはもちろん不十分だ。

 BBテクノロジーがスペクトル管理の標準を改訂中のTTCにAnnex A.ex仕様を報告していない。その理由は,サービスの芽を摘まれるのを嫌ったからだと想像できる。BBテクノロジー側に大義名分があるとすれば,「よりよいサービスをユーザーに提供するため」ということになるのだろう。「スペクトル管理なんてしていたら,最新の技術をいつまでたっても導入できないじゃないか」という言い分も,ある程度納得のいくものだ。

 しかし,だからといって現在あるスペクトル管理の標準規格を無視していいという話にはならない。「Annex A.exは,自らの回線で影響ないのだから他の回線でも影響はない」という発言にしても,もし本当に誤解していたのなら仕方がないが,意図的にユーザーや報道陣を煙にまくつもりだったのなら問題だ。巧妙に仕組まれたマーケティング手法といえるのかもしれないが,その姿勢は咎められるべきだろう。

 BBテクノロジーにとってはもちろん,いち早く12Mビット/秒のサービスを提供することのメリットは大きい。12Mビット/秒を実現するというユーザー・メリットを隠れ蓑に,強引にでも他社に先駆けてサービスを始められれば,シェアを拡大し収入を増やすというビジネス展開も可能になるだろう。

 現状の枠組みでは,BBテクノロジーがAnnex A.exを採用したサービスを提供しても,法律上処罰の対象となるわけではない。TTCのスペクトル管理標準で分類されていない技術を使って電話線を使って通信サービスを提供しても,なんの罰則もないのだ。

 しかし総務省では,「今後,電話線を使って通信サービスを提供する場合はTTCのスペクトル管理の標準を守るという制約を設ける可能性が高い」という。そもそも郵政省(当時)の高速デジタルアクセス研究会の提言で,スペクトル管理の標準がTTCで決められたという経緯もあり,何らかの対応が迫られた格好だ。

速度競争を否定はしないが,ルールは守るべきだ

 ここで,読者のみなさんには少し冷静になって考えていただきたい。下り方向の最高速度が8Mビット/秒から12Mビット/秒になったからといって,インターネットの利用環境が劇的に変化するだろうか? 速度が速いにこしたことはないが,速度保証のない月額数千円の常時接続サービスに,過度の期待をすべきではないように思える。

 今回は触れなかったが,ADSLの長距離化技術については,今までサービスを利用できなかったユーザーを救済するということで,意義は大きい。しかし,8Mから12Mへの速度向上は,ADSL事業者のセールス・ポイントに過ぎない。

 速度競争自体を否定するつもりはない。だが,スペクトル管理標準という現状のルールを否定し,既存のADSLユーザーに迷惑をかける可能性を抱えてまでして押し進めることなのだろうか。

(藤川 雅朗=日経NETWORK副編集長)