「プログラマ,SE,プロジェクト・マネージャなどのITエンジニアは,弁護士や医師などと同じく,高度な専門知識と技術を売り物にするサービスのプロだと思う。医師の場合,人体の構造や臓器の役割,医薬品の作用・副作用,症例別の治療方法などを医科大学でしっかり勉強し,さらにインターン期間中に患者とのコミュニケーション方法などを学んで,一人前になる。

 翻ってITエンジニアはどうか。たとえ情報処理関係の学科を卒業していても,ITに関する基本的,かつ体系的な知識を習得していないケースが大半なのではないか。多くは会社に入った後,仕事を通じて経験的に,あるいは必要に迫られて知識やスキルを身につけるだけだろう。

 医師に例えれば,人体の構造などを知らないまま,単に症状と症状別の医薬品の知識だけで治療しているようなもの。ちょっと症状が異なると治療法が分からないし,その治療法が本当に正しいのかどうか,自信を持てない人も少なくないはずだ」

 少々長くなったが,この話に対して読者は,どう考えるだろうか。賛成,一部賛成,反対など色々だろうが,IT業界のベテラン・エンジニアに聞くと,ほぼ例外なく「確かにその通りだ」という答が返ってくる。

 そのうちの一人は「うちの若手は,Oracle8iの知識は私より上。しかしデータ・モデルを設計しろというと,“それはどうすればいいですか”と聞き返してくる。製品の知識はもちろん重要だが,それよりも大切な,システム工学の基本ができていない人間が多い」(40代中盤のエンジニア)という。

 事実,「このままでは国際的にも遅れをとる」という認識の下,学界,官界では事態改善に向けた動きが始まった。筆者が新雑誌「日経ITプロフェッショナル(5月27日創刊予定)」を企画中に取材した情報を3つ紹介しよう。

 第一に,情報システム開発技術者を育成するための,大学における専門カリキュラムの体系化である。2001年末に情報処理学会が中心となって「ISJ2001」と呼ぶ教育カリキュラムの策定を完了。後は,各大学がこれに準じたカリキュラムの内容を整備すればいいところまで来た。

システム工学の基本から人文・社会系の素養まで

 ISJ2001の体系は膨大だ。(1)プログラミングや離散数学,情報管理とネットワーク・コンピューティングなどの自然・技術系,(2)表現と意思疎通,情報システムのモデリング,情報システムの開発技法といった情報システム専門系,(3)実際に情報システムを開発する演習系,および(4)経営管理論や人間組織体,社会の仕組みなどの人文・社会系,の4系統からなり,それぞれの系統で教育するべき項目を詳細に定めている。

 注目すべきは単なる技術知識やプログラミング教育にとどまらず,実際のシステム開発と同等の演習や,人文・社会系の素養を盛り込んでいることだろう。ISJ2001策定に携わった大岩元慶応大学教授は,「欧米の大学におけるシステム技術者教育では,分析・設計からテストに至るシステム開発の実習にかなりの時間を割いている。こうした経験がない人は,いくら技術知識があっても情報システム開発の専門課程を修了したとはいえない」と,その意義を語る。

 専門カリキュラムの策定にとどまらない。大学における情報システム技術者の教育を評価・認定する「アクレディテーション」も,実施段階に入りつつある。

 認定を担当するのは,非営利団体のJABEE(日本技術者教育認定機構)。JABEEの審査をパスした大学の卒業生は,情報システム開発に関して一定水準の知識,スキルがあることを“保証”される。すでに京都大学など一部の情報関連学科が試行的にアクレディテーションを受けており,今後,ISJ2001に沿ってカリキュラムを整備した大学が順次認定を受ける見通しだ。

 仮にITベンダー側が認定を受けた大学の卒業生を優先的に採用し,そうでない大学の卒業生との間で待遇にも格差をつけるようになれば,どうなるだろうか。ISJ2001の普及が進み,教育の質が向上。さらに学生の勉強意欲も高まるという好循環が起きる。情報サービス産業協会(JISA)の会長である佐藤雄二朗氏(アルゴ21会長)は,「これまでは専門知識の有無にかかわらず,大卒新入社員の初任給は一律だった。これからは,きちんとした教育を受けた者とそうでない者の間に明確な差をつけてしかるべきだと思う」と,この方向を支持する。

ITエンジニアのスキルを明確化する「ITSS」

 もう一つが,経済産業省が中心になって策定を進めている,ITエンジニアの「ITスキル・スタンダード(ITSS)」だ。

 まずITエンジニアをカテゴリ別に38職種(セキュリティ・スペシャリスト,パッケージ適用コンサルタントなど)に分類。各職種別に7段階のレベルを設け,それぞれに求められるスキルや経験をきめ細かく規定する。内容を簡単に書くのは難しいが,例えばソフトウエア開発を担うプロジェクト・マネジャーでレベル5の人材は,経験年数15年程度,年収1000万円程度とし,数10項目からなるスキルを要求されるといった感じである。

 「これからはモノを作り,売ることから,サービスに比重が移っていく。その時,一人ひとりの人材は,個人として何ができるかを問われる。つまりサラリーマンではダメで,プロになる必要がある。そのためには何らかの基準が必要だ」。これがITSS策定の狙いである。

 すでに職種分類やレベル分けは終わっており,この5月をメドに,まずアプリケーション開発に携わるプロジェクト・マネジャーのITSSを公表。その後,他の職種に関しても1,2年程度をかけて順次,公表していく考えだ。

 ISJ2001,アクレディテーション,ITSS。これらが目指しているのは,“ITエンジニアのプロフェッショナル化”の促進である。断片的なITの知識と仕事を通じた経験を重ねるだけでは,国際的に通用するプロのエンジニアとは言えない。何よりITの基礎的・体系的知識がないと,激しい技術の進歩についていけなくなってしまう。

 「若い間は記憶力も学習に使える時間もあるのでいいが,ある程度の年齢になるとそうはいかない。基本がないと応用が利かないの何でも同じ」(ISJ2001策定に携わった神沼靖子前橋工科大学教授)というわけである。加えて交渉力やコミュニケーション能力を含めた,ビジネス・センスも必要だ。

 筆者は一昨年来,「IT業界に広がるモラルハザード」「ITエンジニアを襲う心の病」といった記事の取材を通じて,IT業界にある負の側面を探ってきた。そこには様々な問題が確かにあった。人さえ派遣できれば確実に儲かるとしか考えない経営者や,自社の都合を顧客の立場を利用して押し付けるユーザー企業,そしてろくな教育を施してこなかった大学などである。

 だが,問題は企業や大学だけにあるわけではない。ITエンジニア一人ひとりが自らに求められるスキルや知識を理解し,「専門知識を持ったサービスのプロ」たるべく,自らの能力を高める努力をしてきたかどうか。

 30代半ばで元請け系大手インテグレータに勤務するエンジニアは,「ISJ2001に準拠したカリキュラムをこなした新人が入ってくる前に,自分たちのスキルや仕事のやり方を見直す必要があるかも知れない。そうでないと,彼らに“なんて場当たり的なやり方をしているのか”と言われる」という。

(田口 潤=日経ITプロフェッショナル編集長)