現在,パソコン・ユーザーのほとんどは,GUI(グラフィカル・ユーザー・インタフェース)を日常的に使っている。WindowsやMacintoshのユーザーであればもちろん,LinuxなどのUNIX環境でもKDEやGNOMEといったデスクトップ環境がよく使われている。大したものだ。筆者のように,そのとき担当する記事のテーマによってLinuxを使ったりWindowsを使ったりと気楽に環境を切り替えられるのも,GUIのおかげと言って過言ではない。

 しかし,よく雑誌などで見かける「GUIだから使いやすい」という表現にはひっかかるものがある。GUIは本当に使いやすいのだろうか。

GUIは結構面倒くさい

 個人的な体験になるが,最初にGUIに触れたのは1983年のことだ。NECが発売した「PC-100」という往年の名機である。

 当時無名のジャストシステムがウインドウ・システムを作っていた。このパソコンは55万8000円と当時としても高価で,同時に発売になったPC-9801Fよりも割高だったために売れ行きはさっぱりで,後継製品は作られなかった。大学生協の店頭でこのマシンをいじり倒した結果,面白いとは思ったがGUIの必要性はまったく感じなかった。むしろマウスとキーボードのバランスがとれておらず,使いにくさすら感じた。

 次にまともにさわったのは1986年で,研究室に転がっていた初代Macintoshでしばらく遊んだ。このときにプログラミングや文章作成など,GUIに向く作業と向かない作業が明らかにあるな,と感じた。例えば毎日同じプログラムを起動するのに,いちいちフォルダをたどっていくのは結構面倒だった。

あいまいさを許すことがGUIのユーザー層を広げた

 GUIはある意味であいまいさを許容しているからわかりやすく感じるのではないだろうか。例えばGUIはバッチ処理が苦手だ。コマンドであれば,コマンドの名称と処理が1対1に対応しており,あいまいさはない。これに比べて,GUIはアナログ的に動くマウスなどのポインティング・デバイスで,アイコンのあたりにカーソルを動かしてクリックしたり,ダブルクリックしたりする。

 このとき,精密にどこかのピクセルに動かす必要はない。しかもアイコンの位置は画面上で変わり得る。Windowsのように,アイコンを変更できるものもある。このような自由度が,GUIにあいまいさをもたらしているのだろう。このあいまいさがあるから,UNIXの達人たちは「GUIなんて使いにくい」と感じるのだと思う。

 しかしこのあいまいさが,ユーザー層のすそ野を広げたのもまた事実だろう。明らかにパソコン・ユーザーの数は増えているし,これまで手を出さなかった人々も使い始めている。

 もちろんここで注意しておかなければならないことがある。慣れてない人に使いやすいことは,効率につながるとは限らないことだ。コマンド・ラインのインタフェースは,慣れていれば効率がよい。でも慣れていないと手を出せない。

 つまり,どちらが「よい」とは言えないのだ。ついでに言えば,使いやすいと感じるのは,操作方法がすぐ思いつき,その結果が自分が思った通りだったときだ。つまり,慣れてしまえばどんなユーザー・インタフェースでも使いやすくなってしまう。

そろそろ「次」が出てきてもいいのでは?

 GUIのコンセプトが提案されたのは,実に33年前のことだ。もし機会があれば,1968年12月8日のJoint Computer ConferenceにおけるDouglas Engelbart氏の講演ビデオは一見しておいた方がいい。マウスやマルチウインドウ,メニュー,ハイパーリンク,グループウエアなど,現在のコンピューティングにおける基本要素がこのときに提案されていたことがわかる。

 考え方自体は,このときからさほど進歩していない,ということでもある。そろそろ新たなコンピュータの利用方法が出てきてもよいのではないだろうか。音声による操作などが提案されているが,どうも今ひとつパっとしない。

 考えてみれば,キーボードはコンピュータのユーザー・インタフェースの歴史の中で,もっと昔から使われている。ペン入力などもあるが,こちらも決定版には至っていない。ということは,そもそも汎用的に使う“コンピュータ”自体が代わらなければいけないのかもしれない。

(北郷 達郎=日経バイト副編集長兼編集委員)