わたしたちは,いまから30年後の情報機器の姿を想像できるだろうか。極めて難しいことではあるが,30年前に今日のコンピュータの姿を想像できた男がいた。21歳の学生のときに初めてパーソナル・コンピュータという言葉を使ったアラン・ケイ氏だ。

 当時,コンピュータは空調のよく効いた広いオフィス・スペースを占領し,ディスプレイはなく,テレタイプがコンピュータと人間とのインタフェースだった。オペレータがコマンドを打ち,コンピュータが演算結果をテレタイプなどに出力していた。

 そんな1960年代中ごろ,ケイ氏はディスプレイの付いた持ち運べるノート・パソコン,ウインドウを使ったプルダウン・メニューが並ぶGUI,さらにマウス,オブジェクト指向言語などを矢継ぎ早に提案した。同氏が勤務していたゼロックス社PARC(パロアルト研究センター)ではさらにEthernetとレーザー・プリンタまで考案したことを考慮すると,今日のコンピュータ・システムの中核がそのときに予想できていたといえる。

 このほど来日した「パソコンの父」アラン・ケイ氏が持ちつづけてきた信念は,コンピュータの将来像を描く上で役に立つに違いない。このような想いで彼の姿勢を紹介しよう。

 彼の考え方を追及していけば,ノート・パソコンのような長期にわたる一大ヒット商品の開発のヒントになるかもしれない。画期的な技術開発のヒントになるかもしれない。彼の講演を聞かれた方であればご存じの内容だろうが,一記者の見方だと受け止めて読んでいただけたら幸いである。

印刷技術の登場に比べれば,今のコンピュータは大きな進歩ではない

 彼のコンピュータ哲学は30年前と61歳の今とで,さほど変わっていない。使いにくいコンピュータを子供が使えるようにし,そのことで子供が勉強しやすい環境を作ることを目指している。彼にとってコンピュータは決して計算する機械ではない。自分の考えを他人に伝えるメディアなのだという。メディアとしてのあるべき姿を追求した結果が,彼の提案したノート・パソコン,「ダイナブック」である。

 この“理想的な”メディアには,紙と鉛筆,色鉛筆の機能を持つ薄い画面,それを伝送する通信手段,他の子供や教師と共有できる画面,楽しく勉強するための音や音楽,3次元の絵,などが必要だ。

 音楽や2次元・3次元の図形は楽しく,ゲーム感覚で知らず知らずのうちに学習教科を身につける。自らミュージシャンでもあると語ったように,彼は音楽に造詣が深い。彼の目指す理想メディアは,学ぶだけではなく友だちや教師らと自分の考えを交換することができる。このような道具を使い,数学や科学などの現象を子ども達に自然に身に付けさせよう,というのがいまだに変らない彼の開発姿勢だ。

 残念ながら,今のパソコンはまだそこにも到達していない。だから,彼は講演の冒頭でコンピュータ革命はまだ始まっていない,と言った。

 これまでの歴史の中で,最も大きなメディア革命は印刷技術の発明だという。印刷技術によって何千,何万部の本が入手出来るようになり,聖書を一般の民衆が読めるようになった。いまのコンピュータはメールやワープロができる点で少しは進んだが,情報を共有するという点では印刷技術ができた当時のメディアとさほど変わっていないと彼はいう。

本来のコンピュータの姿とは?

 彼の考える本来のコンピュータは,遠くはなれた人々が同じ画面を見ながら意見を交換しあうメディアだ。この信念に基づく新しいGUIを持つソフトウェアを開発中だ。Squeak(スクィークと発音し,赤ちゃんの泣き声という意味)と呼ぶそのソフトウェアは,相手の画面をただ見るだけのWWWブラウザとは違い,相手のコンピュータ画面を見ながらお互いに話をし,しかも画面上で互いに自由に書き込めるソフトウェアだ。情報を共有しながらやり取りできるため,お互いに切磋琢磨しながら勉強もゲームも仕事もできる。

 Squeakはまだ開発途上ではあるが,このソフトウエアを使ったプログラムの例をいくつか紹介した。画面上で英語の文章のなかからアルファベットをばらばらに動かしてみせたり,そろえたりすることで言葉を覚えさせることができるプログラム,複数の動物の絵を動かしてこちらの場所から別の場所へ何頭かを移動させて分数の意味を教えるプログラム,部屋の中を多数の点で模した人間が部屋の中を行き来するといかに短期間に人と触れ合うかをシミュレーションして,エイズまん延の速度が早いことをわからせるプログラム,など教育を念頭に入れたデモだった。

 このSqueakを,彼はオーサリング・ブラウザと呼ぶ。何よりも情報の共有ができることで平等にチャンスが生まれることを願っている。プログラムサイズはWindows XPの6000万行と比べかなり小さく,21万行にすぎない。さらに使いやすさを追求していくが,今の段階でのSqueakは,彼が社長を務める財団法人Viewpoints Research Institute, IncのWWWサイト(http://www.squeakland.org/)から無料でダウンロードすることができる。

 彼が考えるハードウェアとしてのメディア・ツールは,ワイヤレスで,A4サイズ程度の大きさの画面を持ち,音声認識,文字認識,音声合成も可能で,子供が持ち歩ける重さだとしている。 

(津田 建二=日経エレクトロニクス・アジア チーフテクニカル・エディター)