この3月の最終週,国内のゲーム業界は大きく揺れた。中古テレビ・ゲーム・ソフトの自由流通を巡る控訴審の判決が,東京高等裁判所では27日に,大阪高等裁判所では29日に相次いで言い渡されたからだ。すでに多くのメディアが伝えているとおり,東京高裁,大阪高裁ともにゲーム販売店側の主張を認め,「中古テレビ・ゲーム・ソフトの自由流通は合法である」との判断を下したのである。

 司法判断上の論点は異なるが,両高裁ともに「テレビ・ゲーム・ソフトは著作権法上の“映画の著作物”に該当するが,大量製造/大量販売を前提としているため頒布権(著作物の流通をコントロールする権利)は及ばない」と結論付けたのである。つまり,テレビ・ゲーム・ソフトを書籍やCDといった「一般的な著作物」と同等に位置付けたことを意味する。

 一般消費者の目で見ると,裁判所は極めて“自然な”判断だといえよう。筆者も原則的には,この判決を非常に評価している一人だ。もちろんソフト開発者側はこれら判決に猛反発,最高裁判所に上告した。

 今回の『記者の眼』では,今回の判断がデジタル化された著作物全体に及ぼす影響,そしてソフト開発会社の経営姿勢にかかわる問題を指摘したい。

 まず,両高裁の判断基準の骨子を解説しておこう。両高裁とも,「テレビ・ゲーム・ソフトは映画の著作物であり,著作者は頒布権を保有する。ただし映画の著作物といえども複製物への頒布権が及ぶのは劇場用映画に限られる」とした。これの認識は共通だ。

 そもそも映画の著作物に頒布権が認められたのは,少数の複製物が映画館という限られた場所でのみ一般に提供されてきたことに由来する。映画の制作には膨大な資本投下が必要だが,それを回収する手段が立法当初は映画館での上映以外になかった。映画館という限られた場所でしか投下資本の回収ができなければ,著作者の投資回収機会が限られてしまう。そこで何とかして著作者の権利を守ろうとして成立したのが,著作権法における頒布権なのだ。

 今回の判決で東京高裁は上記のような立法時の趣旨をくみ,「著作権法第26条1項の適用は,少数の複製物を多数の人に視聴させる劇場用映画のみに適用されるべきであり,ゲーム・ソフトのような少数の人が一つひとつの複製物を視聴するようなケースには適用すべきでない」として,パッケージ販売されているゲーム・ソフトには著作者の頒布権が及ばないとした。つまり著作権法第26条1項は限定的に適用すべき,という新解釈を打ち出したのだ。

 一方の大阪高裁は「消尽論」を使った。「消尽」とは権利が消滅することを意味する。大阪高裁によれば,著作者(ソフト開発会社)の持つ頒布権は第1次譲渡---すなわち開発会社からパッケージ・ソフトを卸売業者に売り渡した段階で消尽している。そして,それ以降の段階に著作者の持つ頒布権は及ばない,というものである。

 細かい説明は省略するが,これは特許権における消尽の考え方を著作権にも適用したものである。論点こそ違うが大阪高裁は東京高裁と同様に,「パッケージ・ソフトは大量生産/大量販売を前提とした著作物」であることを根拠に消尽論を展開している。これも著作権法上の新解釈である。

どうなるDVDや新メディア?

 両高裁とも非常に明快な新解釈をもって,ソフト販売店側の主張を認め「中古ソフトの自由流通は合法」とした。もちろんソフト開発会社側が上告している以上,判決として確定しているわけではない。最終的には最高裁の判断を待つべきである。ただし,中古テレビ・ゲーム・ソフトの自由流通は合法である,という流れはかなり確定的になってきたことは否定できない。

 ここで問題となるのが,両高裁とも「テレビ・ゲーム・ソフトは映画の著作物である」と明確に認めた点だ。ところが,同じ映画の著作物である「劇場用映画を収録したビデオ・ソフトやDVDソフト」には頒布権が認められている。ビデオ・ソフトやDVDも,テレビ・ゲーム・ソフトと同じパッケージ商品だ。同じ「映画の著作物でパッケージ商品」という位置付けながら,ゲームと映画では著作権法の適用が全く異なってしまった。

 今後,劇場用映画をDVDに収録して大量販売するケースはますます増えるだろう。さらにメモリー・カードなど新媒体に映画を収録して販売するといった事態も発生し得る。ソフト開発会社側は,このあたりを新たな争点として最高裁で論陣を張るとみられる。

 その意味で,最高裁がこの上告に対してどのような判決を下すのかが注目される。もし仮に最高裁がソフト開発会社側の上告を両方とも棄却するとなると,こんどはVTRやDVDソフト,そして新メディアに収録した「映画の著作物」を巡って新たな訴訟が提起されることは,ほぼ確実だ。

 この問題はテレビ・ゲーム・ソフトの範疇(はんちゅう)を越え,劇場用映画や他のデジタル化された著作物の取り扱い方に必ず波及する。著作物全体にわたる大きな問題となる。

 このことについて真剣に議論することは,今後の著作物の取り扱い方 --- 特に流通 --- を考えるうえで大きな意義がある。筆者は多方面/多角度からこの問題に対する議論が盛り上がることを期待している。せっかくの機会である。徹底的に議論を戦わせるべきだ。

ソフト開発会社は本当に投下資本を回収できていないのか?

 もう一つ問題にしたいのがソフト開発会社の経営姿勢である。ソフト開発会社側は,「中古ソフトが流通することで新品の販売を圧迫している。さらに中古ソフトが流通する際に,著作者(開発会社)は投下資本を回収する機会を奪われており,大きな損失となっている。これらのことを勘案すると,著作者に許諾をとっていないゲーム・ソフト流通で,開発会社は打撃を被っている。だからこそ頒布権によって開発会社の利益が守られなければならない」と主張した。

 ここでちょっと,今回の当事者のうちソフト開発会社側の陣容を見てみよう。東京高裁での当事者はエニックス。大阪高裁は,カプコン,コナミ,スクウェア,ナムコ,ソニー・コンピュータエンタテインメント,そしてセガだ。

 このうちセガを除けば,いずれも高収益を上げている。セガにしたところで損失の原因はゲーム機「ドリームキャスト」の失敗によるところが大きい。ソフト開発ではきちんと利益を上げている。これらのことを考慮すると,ソフト開発会社が投下資本を回収できていないと判断することはできない。大阪高裁判決でも「著作者(開発会社)が卸売り業者に著作物を販売することで,著作者は投下資本回収の機会を与えられている」と認定している。

 あるソフト開発会社によるとと,「何本も新作を出して,利益が出るのは一握り。その一握りのソフトで利益を出している」状態という。以前にもこの「記者の目」で書いたが(「経営判断のミスを著作権問題にすり替える?」),これは暴論だろう。ソフトをやみくもに多数開発して,そのうち1本でも当たればいいや,という姿勢は経営でも何でもない。

 「売れないソフト」を作った経営判断のミスを棚に上げて,投下資本の回収策として著作権法を持ち出すのは,筆者からみると著作権法の精神 --- すなわち著作者に適正な権利を与え,文化を保護する --- に反する行為と思える。本来ならば資本投下とその回収は開発会社の経営責任だろう。ソフト開発会社は,その主張で経営判断の「甘さ」を露呈してしまっているのである。別の見方をすれば,経営責任を一般消費者(特に子供たち)に押しつけているともいえる。

 このように書くと「ゲーム・ビジネスの本質を理解していない」という反論が出そうだ。「ゲームは当たり外れが大きいものだ」と。しかし,筆者はこのように再反論したい。

 「現在,当たっていると言われているソフトは,既存ソフトの続編ばかり。新たな発想やそれに必要な徹底したマーケティングをやって,ユーザーにとって魅力ある新作をきちんとコンスタントに出しているのですか? それ,やってませんよね。つまり経営努力を怠っていることに他なりませんか?」。

 そして,「もし,どうしても当たり外れがあるなら,重点投資項目を明確にしたり,開発行為に対して保険をかけるなど,経営の内側でできる工夫をすべきですね。米国のハリウッドなどでは,当たり前のことですけれど」と。

(田中 一実=インターネット局ニュース編集部次長)