「ネットワークに価値を吸い取られてはならない・・・」。

 3月29日に都内のホテルで開かれたソニーの2001年度経営方針説明会。同社の安藤国威社長の放った言葉に,記者は少なからず驚いた。プロバイダ事業のSo-netや企業向けの広帯域加入者無線アクセスサービス「bit-drive」などを抱え,何よりも「ブロードバンド経営」を標ぼうする同社首脳の発言とは思えなかったからだ。

 だが続く安藤社長の説明に疑問はすぐに氷解した。「当社製ハードをネットワークに接続することで“ハードそのものの価値”を高め,そのハードを構成する半導体を含めた電子機器で収益を上げる。これがソニーの基本方針だ」。言われてみれば何のことはない。モノ作りで収益を上げるべき製造メーカーなら当然の経営原則を説明しただけだった。

 これが一瞬でも奇異に映ったのは,前年3月の経営方針発表の席上,出井伸之ソニー会長兼CEO(最高経営責任者)が「当社の経営のキーワードは“ブロードバンド”」と言い切ったことが頭にこびりついてたからだろう。先のSo-netやbit-driveのような回線サービス事業の展開や,2001年1月にサービスを開始したCATVインターネットの推進企業「AII」への出資なども,「ソニー」=「ブロードバンド(ネットワーク)」という図式の刷り込みには十分だった。

 発表会の後,通信・放送担当役員である鶴見道昭執行役員(ソニー・放送メディア社長)に話を聞くと,「ソニーには(ネットワーク)インフラに投資しないという不文律がある」との明快な答えが返ってきた。ハード製品は今後,今以上のネットワーク対応が当然となる。ただしネットワーク自体にのめり込むのではなく,通信・放送業界と多くの接点を持つことこそが重要というわけだ。

 広帯域加入者無線アクセス・サービスについても,ソニーの徳中暉久副社長は「bit-driveの展開のおかげで技術陣のスキルアップが図れている」と,やんわりかわす。bit-driveは単体で独立採算を目指すプロフィット・センターだが,これだけ聞く限りコスト・センターととられても仕方あるまい。

 多くの企業が「ブロードバンド対応」やら「ブロードバンド・コンテンツの重要性」だのと言い始めたなか,「ネットワークに価値を吸い取られてはならない」とする安藤社長の言葉は,やはりとても新鮮だ。

 固定/無線にかかわらず,ネットワークを保有する通信事業者が圧倒的な市場支配力を持つ日本。その結果,コンテンツ料金の値段を通信事業者が勝手に決めるといった状況がまかり通っていたり,コンテンツ料金よりも通信料の方が高額という不思議な現象が起きていたりといったイビツな環境に,だれも異を唱えないのが現状だ。

 安藤社長はソニーという一企業の経営戦略を語ったに過ぎず,それ以上の深い意味を込めてはいないはず。しかし「ネットワークに価値を吸い取られてはならない」とのフレーズは,日本のネットワーク環境の不思議さを揶揄(やゆ)する的確な表現と思われる。

 筆者の眼には,現在の日本は「ネットワークに価値を吸い取られている」ように映る。“ネットワーク”の部分を,“ネットワークを有する特定の通信事業者”に置き換えた方が正確かもしれない。

 もちろん,ネットワークの価値が増すこと自体は素晴らしいことだ。例えば回線のブロードバンド化によるインターネットへの快適な接続がそうだろう。NTTドコモの「iアプリ」のような,ソフトウエア・ダウンロード・サービスも面白い。だが問題は,これらの価値の創出がすべて数少ない通信事業者の手の内にあり,彼ら自身の社内スケジュールに沿ってしか実現しない点にあると思う。

 ネットワーク事業者が,自らのネットワークの価値を高めるよう動くのは当然だ。高速・大容量で強固なセキュリティを保ち,安定して信頼性が高いネットワークの実現。これは多くの消費者や企業が切望しているうえ,どこまで追及しても終わりがない課題だ。どうかぜひ突き進んで,一刻も早く世界最強のネットワーク・インフラを構築してもらいたい。「日本の素晴らしいネットワーク環境を支えているのは××グループだ」と,我々全員が胸を張れるほどに。

 だが,その上で繰り広げるサービスや,そのネットワークにつなぐエレクトロニクスは違う。ここは競争を通じて利用者に選ばれたもの,つまりより高い価値を創造したものが生き残る場であってほしい。つまり実際の製品同様に,多くの競合製品のなかから「価格(料金)と機能,革新性,投入時期,市場性」がピタリと利用者の心をとらえたものだけがヒットする市場構造の実現だ。

 素晴らしいサービス/製品は特定の通信事業者の,きれいに磨かれた机の上からは生まれない。実際にモノを作る数多くのメーカーや,奇抜なアイデアを持つ無数の中小企業のなかにこそあると確信する。多彩な網インタフェースが公開されており,それを使ったユニークな製品群が市場にあふれ出るようなネットワーク。これこそネットワークの「価値」ではないだろうか。

 こう考えてみると,NTT東西地域会社と総務省が開始の是非を巡り戦いを繰り広げた「Lモード事件」など,実に小さな出来事に思える。製品(サービス)がヒットするかどうかの根幹をなす料金を事業者側が決めてしまうというNTTドコモのコンテンツ課金システムに至っては,開いた口がふさがらない。後者の場合など,製造者(コンテンツ・メーカー)が不適切な料金設定で被った事業リスクを,NTTドコモが肩代わりしてくれるとでも言うのだろうか。

 ソニーの安藤社長がいみじくも放った言葉は,実に奥が深かった。ソニーびいきでもなく,ましてや同社の経営戦略自体にはほとんど関心がない記者にとっても,思わず走らせるペンを止めてしまったほどに。それは恐らく,これまで同様の発言をした日本企業の経営者が皆無だったからでもあるだろう。

 ネットワークの在り方について通信/電気業界首脳が放つのは,恥ずかしげもない「NTT擁護」か,あるいは完全な沈黙ばかり。立場を思えば事情は分かる。しかし逆に言えば,民間企業の経営者の自由な言論すらふさいでしまうほど,日本のネットワーク事業者は特異な存在と言うことか。

 改めて思う。有能なトップを抱くソニーの社員は幸せだ。でも,きっと,後でチクチクいじめられると思います。だって巨大で強面(こわもて)の国内通信事業者に,たくさんの製品を納めているんでしょう?

(宮嵜 清志=日経コミュニケーション副編集長)