最近,IPv6の研究者やIPv6機器を開発している技術者と話す機会が何度かあった。こちらが,「一般紙でもIPv6という言葉を見かけるようになりました。開発者には大変いい状況になってきたのでは?」と話を向けると,一様に複雑な顔をする。「注目されるのはいいんですけどね・・・」。手放しで喜べない様子である。

 浮かない返事の理由を聞く前に,IPv6の開発の歴史をざっと振り返ってみたい。

 IPv6の開発が始まったのは1992年のこと。IPアドレスが足りなくなるという不安が現実味を帯びてきたのがキッカケだった。128ビット長のアドレス・フィールドを持つIPv6の原案が固まったのは1995年12月。その後,関連プロトコルの仕様開発が続いた。

 実用化に向けた動きが本格化したのは1998年。仕様開発では海外の技術者がイニシアティブを取っていたが,IPv6のプログラム開発では日本の技術者がリードした。4月に生まれた産学協同プロジェクト「KAME(かめ)プロジェクト」がその母体となった。

 KAMEプロジェクトの目的は,IPv6プログラムの参照コード(基準となるプログラム)を作ること。ターゲットに選んだOSはBSD系のUNIX。これは,IPv4プログラムの参照コードがバークレイUNIXだったことを意識したからだという。KAMEプロジェクトは現在も続いており,成果の一端は各種BSD系UNIXの中だけでなく,2001年3月出荷予定のMacOS Xの中にも見ることができる。

 日本のIPv6プロジェクトとしては,KAMEのほかに「TAHI(たい)プロジェクト」と「USAGI(うさぎ)プロジェクト」がある。TAHIの目的はIPv6システムの評価と検証。評価ツールを開発したほか,IPv6機器の相互接続実験を実施している。過去2回実施した相互接続試験のイベントには,日本のメーカーだけでなく,米マイクロソフトや米シスコシステムズ,米3Comなども参加した。もう一方のUSAGIは,最新のIPv6仕様に基づいたLinux向けIPv6コードを開発中。このように日本の技術者は,間違いなくIPv6実用化の先端を走っている。

 ならば,森首相が国会の所信表明演説のなかに「IPv6」という言葉を盛り込んだことや,政府が約130億円もの補正予算をIPv6関連の実用化研究に振り向けたことは,開発者のやる気を後押しするトピックのはず。世の中にIPv6が露出することを,なぜ素直に喜べないのだろう。

 「“IPv6になるとすべてが劇的に改善される”なんて思っていやしないかと心配になるんだよね」---。ある技術者のこの言葉が関係者全員に共通する気持ちのようだ。どの関係者も,根拠のない間違った情報が無責任に広まることを危惧しているのだ。期待が大きいほど,その反発が大きくなることは想像に難くない。

 例えば「IPv6のキラーアプリは何か?」という素朴な問いがある。ここでいうキラーアプリは,たいていの場合「IPv4ではできないけど,IPv6ならできる魅力的なアプリケーション」を意味する。だが,これにはちょっと無理がある。IPアプリケーションのほとんどは,TCPとUDPという二つのプロトコル上で動作する。IPはTCPとUDPを運んでいるにすぎない。IPレベルで仕様が変わっても,その違いはTCPとUDPが吸収する。つまり,ユーザーにとってのIPv6のメリットは,IPv4のアプリケーションをIPv6環境でも使えることにほかならない。

 もちろんIPv6は,IPv4にない特性・機能を持つ。代表的なものとしては,(1)アドレス空間が広いこと,(2)暗号通信を標準的に利用できること,(3)設定が自動化されていること,(4)ルーター間でパケットを効率よく中継するしくみを備えていること---などがある。ただしこれらはどれも,ネットワーク管理者やインターネット接続事業者(プロバイダ)にとっては魅力的で意義のあるものだが,一般ユーザーの目に見える形でのメリットではない。

 昨年から一部のプロバイダがIPv6実験サービスを始めている。今年は,商用版のIPv6接続サービスも始まるだろう。このとき,ユーザーがIPv6に過大な期待を抱いていれば,IPv6の現実に拍子抜けしたり,失望したりするだろう。加えて,IPv6機器の動作が不安定だったり,それぞれの実装に違いがあったりすれば,IPv6不要論やIPv6バッシングが声高に叫ばれるかもしれない。

 でも,こうした展開はIPv6の将来を考えると必ずしも悪くないものともいえる。というのは,IPv6が不要となる可能性が極めて小さいからだ。どれほどの批判を浴びたとしても,IPv6は間違いなく現実に動き始めるだろう。なぜなら,今のペースでインターネットが広がっただけで,IPv4アドレスは2005年にも使い切ってしまいかねないほど,アドレス問題が逼迫しているからだ。

 もし,携帯電話や家電もIPを使うとしたら,枯渇の時期が早まるのは確実だ。もはや好き嫌いの問題ではなくIPv6しかないのである。だからこそ,多くのユーザーが少しでも早くIPv6の正しい知識を得る必要がある。少々荒っぽい形でも,幻想はうち砕かれたほうがいい。

 IPv6は今,個々の実用化技術の開発段階からシステム運用技術を確立する段階へ向かい始めている。ここで必要となるのは,実際にIPv6を使うユーザーが,運用するなかでサービスや機器についての不満や問題点を具体的に指摘し,これを機器開発やサービス運用の現場にフィードバックするプロセスだ。これが動き出せば,IPv6ネットはもっとユーザーに身近なものとなり,サービスと機器もこなれたものとなるだろう。この過程を踏むことで,多くのシステム担当者に役立つような定番の運用ノウハウも蓄積できるはずだ。

 そこで提案したいのだが,IPv6商用サービスの料金をIPv4サービスより大幅に安くするのはどうだろう。IPv6ならではキラー料金というわけだ。紹介してきたように,IPv6の直接的なメリットは一般ユーザーより,それを管理する側の方にある。それを何とかコスト削減に結びつけ,まずは「低料金」というユーザーにもっともわかりやすいメリットを打ち出すというアプローチだ。

 これが実現できるなら,IPv6普及に向けた新しい風が吹き始める思うのだが・・・。

(林 哲史=日経NETWORK副編集長)