「それにしても,どうして企業のシステム部門はVoIP(voice over internet protocol)が好きなんだろう?」--。とある勉強会の打ち上げでやってきた中華料理店。シドニー五輪の話題でひとしきり盛り上がった後,となりの席のMさんがつぶやいた。

 Mさんは,数冊の技術解説書を書き下ろした経験を持つベテランのネットワーク技術者。企業ネットの再構築を提案するため,全国を飛び回っている。彼の話によると,多くの企業は社内電話網を,IP(internet protocol)ネット上に作ることを考えているという。

 インターネットの社内利用が活発になったおかげで,今では多くの企業が社内ネットの高速化とIP化に積極的に取り組んでいる。こうなると,コンピュータ・データだけでなく,音声データも社内IPネットで中継したくなる。ランニング・コストを大幅に削減できるのではないかと期待してのことだ。

 Mさんがビールに手を伸ばす間に,頭の中を整理してみる。音声をIPパケットで中継する技術「VoIP」は特別新しいものではない。VoIP技術を活用した「インターネット電話サービス」が登場したのは3年以上も前のこと。企業ネットの導入事例も珍しくなくなった。加えて,機器メーカーのVoIP製品の開発意欲は高まる一方。ルーターやLANスイッチへの組み込みも始まった。まさに,旬の技術といえる。

 製品もあって,ユーザー・ニーズも高い。本来ならMさんの腕の見せ所となるはず。何が不満なんだろう。グラスを傾けるMさんに聞いてみた。「ネットのIP化と高速化はどんどん進む。そこに音声を入れたくなるのは自然なことでしょ。製品開発競争も激しいみたいだし,ネットワーク・インテグレータにとってはありがたいトレンドじゃないの?」。

 Mさんの反論はこうだ。「お客さんが納得できる音声品質を作れるなら問題はない。でも,それが難しい。品質とコストの両方で満足できるネットを作れるのは,拠点数が少なく,拠点間を高速回線で接続しているごく一部の企業だけだろう。冷静に見ると,目的(音声ネットのコスト削減)と手段(VoIPの導入)をはき違えているように思えてしまう」。

 音声ネットの設計・構築では,データ通信のときには登場してこない設計ポイントがいくつかある。自分の声が雑音になるのを防ぐ「エコー・キャンセル」,声の大きさを決める「レベル調整」,IPパケット単位で変化する中継遅延を補正する「ゆらぎ吸収」,このほか,内線番号からIPアドレスを高速検索するしくみも必要になる。ただし,もっとも厄介な問題は別にある。遅延である。

 VoIPで実現しようとしていることは,通話,つまりリアルタイムの音声通信だ。許される遅延は片道当たりせいぜい200ミリ秒程度。この中にはデジタル化やパケット化のための遅延も含まれているので,できるだけIPネット内の中継遅延は小さくしたい。だが,ここが難しい。もちろんメーカーは,IPネット内における音声データの中継遅延を小さくするため,さまざまな制御技術を開発している。ただし,それらの技術を駆使しても,ネットの規模が大きくなったり,ルーター間の回線速度が低速な場合には遅延は大きくなってしまう。

 考えてみれば,IPネットで遅延が生じるのはごく当たり前のこと。遅延を許さないネットワークは,必然的に利用効率が悪くなり,結果として利用料金が高くなる。これは電話網を見ればわかる。一方のIPネットは,中継遅延を許すことで利用効率を高めている。もしIPネットに遅延を許さないような仕組みをどんどん組み込んでいけば,確実に利用効率は悪くなり,利用者にとって高価なネットになってしまうだろう。

 気がつけば,すでに議論のテーマは携帯電話へ移っている。iモード,次世代移動通信システム「IMT-2000」,高速無線データ通信技術「HDR」(high data rate)--。最新技術の将来性を論じるのはなかなか楽しい。そういえば,「携帯電話でVoIP」というニュースを見かけたゾ。そのことを口にしようとして気がついた。もしかしたら,IPネットが本当に苦手なのは,“IP技術なら何でも解決できるのではないか”という楽観論なのかもしれない。

(林 哲史=日経NETWORK副編集長)