生き馬の目を抜くIT(情報技術)業界。そこに,こんな格言がある。「ゲームに勝つ確実な方法がある。ゲームのルールを自分が勝てるように変えてしまうことだ」。米サン・マイクロシステムズの創設者の一人で,副社長のビル・ジョイ氏が語った言葉である。

 もちろん,ゲームのルールを変えることは容易ではない。思い込みや思い付き,偶然だけではIT業界のルールは変わらない。いくつかの「力」が不可欠となる。たとえば,時代の潮目を敏感に感じ取る着眼力,ルールを変えるだけの構想力(IT業界を納得させる説得力ともいえる),そして裏付けとなる技術力といった「力」だ。さらには「運」をもった「人材」が加わることで,ルールは改訂にいたる。

 ここにきてIT業界では,ウインテル(米マイクロソフトと米インテル)が打ち立て,10年あまり続いているルールの終焉を予感させる“事件”が相次いで起こっている。主役は,OSにおけるLinux,ポスト・パソコンの一番手である携帯電話,そして新しいコンセプトから生まれたパソコン向けマイクロプロセッサ(いわゆるx86互換プロセッサ)である。ここでは,最新の話題であるプロセッサの話を取り上げよう。

 新しいx86互換プロセッサを生み出したのは,1995年に設立されたベンチャー企業の米トランスメタ。同社が開発したx86互換プロセッサ「クルーソー(Crusoe)」が,パソコン業界で急速に支持を広げているのだ。たとえば国内では,ソニーがクルーソーを使った「バイオ・シリーズ」の新製品を先日発表した。このほか,富士通や日立製作所,日本アイ・ビー・エムなども採用に名乗りを挙げている。

 x86互換プロセッサのメーカーとしては米AMDが有名。しかしAMD社の日本での活動は苦労の連続だった。NECや富士通,東芝といった大手のパソコン・メーカーにはインテル社がどっしり根を下ろしていて,容易に食い込めない。「インテル社の同等性能品よりも25%安い価格」という戦略もさほど効果がなかった。採用されたとしても,パソコンの本流からはるかに外れた製品という状況が長く続いた。

 ところが新参のトランスメタ社は順調そのもの。同社がクルーソーを発表したのは2000年1月のこと。事前に営業活動をしていたとしても,たかがしれている。知名度も,世界的な半導体メーカー(米データクエストによると99年は世界18位)で,10年あまりもx86互換プロセッサを手がけているAMD社に比べれば見劣りがする。そのトランスメタ社の製品が,発表から1年足らずで国内の大手パソコン・メーカーに採用される・・・。

 一体,何が大手パソコン・メーカーをクルーソーに走らせたのか。

ライバルと同じ土俵では戦わない

 クルーソーの最大の特徴は,パソコン向けプロセッサとしては際だつ消費電力の小ささである。発表当時は,「ノート・パソコンが充電しなくてもまる1日動く」と喧伝された(ソニーのマシンは,標準バッテリーで公称5.5時間と従来機種の約2倍動作する。大容量バッテリーだと同20時間である)。

 これが,「モバイル」環境を最重視し始めたパソコン・メーカーの琴線に触れたことは想像に難くない。「クルーソーは同じ周波数で比べるとPentium IIIの70%の性能」(トランスメタ社)だが,性能が少々低下しても電池動作時間が大幅に延びれば,メリットがデメリットを上回るとパソコン・メーカーは踏んだ訳だ。消費電力に徹底的に注目した「着眼力」とそれを売り込む「構想力」で,トランスメタ社は秀でていた。

 確かに,消費電力に着目するx86互換プロセッサはこれまでにも存在した。しかしクルーソーが,他と一線を画すのはその実現方法(トランスメタ社の「技術力」)である。

 従来のx86互換プロセッサは,ハードウエアの工夫で(半導体技術の力を借りて)消費電力を抑えた。標的となったインテル社も,ハードウエア指向の強い会社。基本的にハードウエアの改良を重ねて,現在の地位を築いた。両者は同じ土俵で戦うことになった。結果として,その差は大きくは開かなかったし,多少開いてもインテル社の追い上げを許した。

 トランスメタ社の発想はちょっと違った。まずソフトウエアの力を存分に生かし,x86プロセッサとの互換性を維持するとともに,消費電力の大幅に減らしたのだ。ソフトウエアの助けを借りてx86命令との互換性を実現することによって,複雑なx86アーキテクチャの実装を回避し,ハードウエアを単純化したのだ。同等の性能をハードウエアで実現する場合に比べて回路規模(トランジスタ数)は1/4になったという。消費電力やコストの低減につながった。

 ハーバード・ビジネス・スクール教授のクレイトン・クリステンセンは,著書『イノベーションのジレンマ』(翔泳社,2000年)でこう語っている。技術革新には「破壊的イノベーション」と「持続的イノベーション」がある。前者は,一時的には製品性能の低下を招くことのある技術だが,従来とはまったく異なる価値基準を市場にもたらす。新興企業が台頭し,大手企業を衰退へと導くパワーを秘めている。後者は,既存製品の性能を高める技術だ。漸進的なものもあれば,性能を格段に高める画期的な技術もある。

 トランスメタ社がクルーソーに使った技術は,性能こそインテル製のマイクロプロセッサに比べて低いものの,消費電力の面で新たな尺度をx86プロセッサの市場にもたらした。まさに,「破壊的イノベーション」といえる。筆者は99年春に本欄で,ポスト・パソコン時代のプロセサには「ソフトウエア的な思考が強く求められる」と書いたことがある。クルーソーは,まさにこの条件にも当てはまる。

最後は「人」

 それにしてもトランスメタ社の登場は,米国のIT業界の懐の深さを改めて感じさせてくれた出来事だった。

 パソコン向けプロセッサで当てれば,その見返りはとてつもなく大きい。しかし,対戦相手は世界1位の半導体メーカーであるインテル社や同18位のAMD社だ。これまでも,これらの強敵に挑んだベンチャー企業は現れたが,いずれも消え去ったか,苦戦を強いられている。特に99年は,有力2社が台湾のVIAテクノロジーに買収され,パソコン向けプロセッサ・ビジネスの難しさが改めて明らかになった。普通考えると,トランスメタ社が勝てる確率はとても低い。

 ただ,一つ言えることがある。トランスメタ社が抱える技術者が魅力に富んでいたことだ。同社は,もともとタレント技術者揃いの企業としてIT業界では通っていた。米AT&Tのベル研究所でUNIXの開発にかかわった4人のうちの一人や,Linuxの生みの親であるリーナス・トーバルズ氏が勤める会社として有名だった。

 社長兼CEOのデービッド・ディジェル氏も,コンピュータ設計者としてはつとに有名。カリフォルニア大学バークレイ校で,デービッド・パターソン教授と初期のRISCプロセッサ(SPARCの原型)を開発した人物である。その後,AT&T社のベル研,サン社を経て,1995年にトランスメタ社を設立した。サン社では,主任エンジニア(当時の名刺ではDistinguished Engineer)としてSPARCチップ開発部隊を率いた。

 米マイクロソフトの設立者でもあるポール・アレン氏や,投資家のジョージ・ソロス氏といった海千山千の出資者にとって,これらの人材が魅力的に映ったことは間違いなさそうだ。「事業的に成功するか分からない。しかし当たれば大きい。人材も豊富だ。ディジェル氏らに賭けてみよう・・・」。

 米SGIや米ネットスケープ・コミュニケーションズを創設したジム・クラーク氏は,その投資哲学を「完成した製品ではなく,それを作った個人の能力の方が重要なのだ」と表現している。トランスメタ社は,米国投資家の行動パターンを端的に表す例といえよう。

 もちろん,トランスメタ社が二の矢,三の矢が放てるかどうかは分からない。しかし,時代を変える潜在能力があるのは確かだろう。

 実は,先の『イノベーションのジレンマ』にインテル社の会長であるアンドリュー・グローブ氏は次のような言葉を寄せている。「明晰で,示唆に富み,それでいて恐ろしい」と。

 何とも示唆的な献辞である。

(横田 英史=IT Pro編集長)

◎参考文献
Transmeta,ついに噂のx86互換チップを発表
【続報】ベールを脱いだ謎のx86プロセサ「Crusoe」,低消費電力化に工夫凝らす