マイクロソフト日本法人の設立に携わり、初代社長を務めた古川享氏。約20年間、同社を拠点にして業界を牽引してきた古川氏が「なぜ今、退任を決意したのか」。心境を聞いた。

(服部 彩子=日経パソコン)


古川 享(ふるかわ すすむ)
1954年東京都生まれの50歳。1979年アスキーに入社し、1982年同社取締役。米マイクロソフトのソフトウエアの日本向けライセンス販売を手掛けた関係で、1986年アスキー退社と同時にマイクロソフト日本法人を設立。初代社長に就任した。その後1991年まで社長を務め、同年、会長に就任。2000年には米マイクロソフトの副社長に就任し、2004年から現職。日本法人の最高技術責任者として、同社初の米国人社長であるマイケル・ローディング社長をサポートしてきたほか、業界のスポークスマン的な存在として活躍している。

 まず、最初に申し上げたいのは、僕が会社をやめるのにあたって、今、この時期に必要以上のことを語るのは、本意ではないということ。アスキーを退社してマイクロソフトを設立したときもそうでしたが、どんなことを言っても、自分の真意とは異なる受け止め方をされることが多い。

 ただ、パソコンを愛して利用してくださっている人たち、パソコンに未来を感じてくださっている人たちと、僕の思いは通じるところがあると考えています。ですから、マイクロソフトを辞めて、これから何をしようと考えているのかを皆さんにお話しましょう。

 僕の退社に関して、いろいろな憶測があるようですが、どこかの会社の引き抜きに応じて移籍するわけではありません。よく皆さん言われますが、決して、マイクロソフト日本法人の外国人経営者、マネージャー層との確執があって会社を辞めるわけでもありません。

 僕は、パーソナル・コンピューティングの未来に、人の生活を豊かにする可能性を感じています。これはアスキー時代から変わりません。例えば、ディズニーランドようなところで、自分が撮ったデジカメ写真の場面に応じて、自動でアニメーション・キャラクターを付けて相手に転送できるサービスがあったらいいと思いませんか。家族の思い出の瞬間をデジタルデータとして保存して、膨大なアルバムをめくるより簡単にいつでも見られるようにしてもいい。パソコンは、人の優しさを伝えられる道具としても、まだまだ進化します。最終的には、パソコンの存在さえ感じない「見えないコンピューター」が理想なのです。

 マイクロソフトを辞めた僕より若い“卒業生”たちにも、そういう思いで頑張っている人はたくさんいます。僕は彼らの応援もしていきたい。いろいろなところにアイデアを提供し、普段は接点のない人々をつないでいく。つまり僕自身が“触媒”になって、大きな化学反応を起こしていこうと考えています。

 今の時代、新しいことをしていくのに、企業や組織にとらわれる時代ではありません。これだけソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)に多くの人が惹きつけられるのは、組織を超えた「ゆるやかな人のつながり」だからこそ。僕自身もこれまで、そういう活動をしてきました。

 ただ、そろそろ、マイクロソフトの外に出て、活動してみた方がいいのではないか、と感じるようになってきました。大きくなったマイクロソフトの組織の中にいるより、一歩、外に出たほうが、パソコンの可能性について語れることもあるだろうし、マイクロソフトの悪いところもきちんと指摘できる。そのためにも、退社を機会に、自分が持っているマイクロソフト株をすべて手放して、いったん完全にマイクロソフトの外に出ようと考えています。

 また、個人的には、会社を離れて自分自身のブランドがどれだけ通用するか、試してみたい、という思いもあります。

 これからの活動のベースは東京になるでしょう。しばらくは充電期間としますが、その間も、海外に出掛けて展示会を視察したり、一方で芸術に触れたり、自分のアンテナの感度を高く保つための活動も続けます。また、メディアを通じて、今後のパーソナル・コンピューティングの方向性などについて、皆さんにお話していくこともしてみたいと考えています。