「鉄道はIPv6に向いている」と言い切るのは,JR西日本(西日本旅客鉄道)技術部の森 崇氏(写真1)。同社は,2002年3月から沿線にIPv6網を実験的に構築している。その距離すでに70数キロ。無線LAN機能を搭載した列車から,IPv6によるインターネット接続もできる。なぜ鉄道でIPv6なのか。実験網を立ち上げた森氏にその狙いを聞いた。聞き手はIT Proの和田英一。

――どのような目的で沿線にネットワークを作ろうとしているのか?

 鉄道会社では保線屋は線路,電気屋は信号機といろいろな人が沿線を良くしようと額に汗して働いている。万が一,電車に障害が発生したときは,こうした現場の人たちが情報を共有して,活動することが求められる。彼らを結びつけるようなネットワークを作りたい。

写真1●無線LAN接続を試みる森 崇氏  

 もう1つは,これまで踏切の遮断機や信号機など各設備ごとに信号線を引いて,操作してきた。これから何か新しいことを沿線でやろうとしても,一から信号線を引いてやろうとすると莫大なコストがかかってしまう。特に東海道本線は貨物列車も多く,沿線で作業をする時間はなかなか取れない。今後,踏切を見張るライブ・カメラや各種センサーを取り付ける場合に,共用して使えるインフラを作りたい。そのためにIPベースのネットワークを構築したい。

 将来的には,このネットワークを乗客が車内からインターネット・アクセスすることも考えたい。

――では,そこでなぜIPv6なのか?

 共用のネットワーク・インフラとしてはIPベースがよい。その際に,IPv4で線区(線路の管理単位)ごとにサブネットを分けて,センサーなどにIPアドレスを振っていては,アドレス管理が複雑になる。新しいセンサーを追加したいと思っても「アドレスの整理をしないと新しいIPアドレスをつけられないから,ちょっと待って」ということになりかねない。

 また,ある線区で使っていた機器を,別に線区に移設するということもよくある。その場合に,その機器のネットワークの設定をし直さなくてはならないというのは避けたい。

 IPv6であれば,標準機能であるアドレス自動生成機能により,グローバルIPアドレスが自動的に付く。線区を移動しても接続されたネットワークに応じたアドレスに自動的になる。

 さらに,これは会社の方針として決まったことではなく,個人的な考えだが,IPv6にしておくことで将来のエクストラネット構築に備えるという意味もある。これまでJRは直営主義を貫いてきたが,いつまでも続けていられないだろう。今後は例えば,複数の鉄道会社の線路を一括して保守する会社に業務委託する可能性もある。

 そういう時代になった時に,例えばセンサーの状態を見て外部の会社に保守作業をしてもらう場合,IPv4のプライベート・アドレスをセンサーに付けて,アドレス体系の異なる会社との間で接続しようとすると,ネットワーク管理が煩雑になってしまう。そんなに面倒なら,社外との接続は止めておこうということになりかねない。IPv6にしておけば,何も考えなくて社外と接続してエクストラネットを構築できる。

 よく「IPv6のキラー・アプリがない」と言われるが,私からしてみれば,IPv4と同じように使えるというのが一番のIPv6のメリットだ。IPv6にしておいていいのだ。

――新しいセンサーとしては,どんなものがあり得るのか?

 Webカメラはすでに実験している。踏切に横河電機のIPv6対応汎用コントローラ「Xancia(ザンシア)」を置いて,Webカメラをつないでいる。XanciaはWebサーバー機能を持っているので,そこにブラウザでアクセスすれば,動いている列車の中からでも踏切の様子を見られる。

 IPv6でWebカメラのデモはよくあるが,実用上の意味はある。踏切事故が起きた場合に,列車の運転手などが踏切の様子を確認でき,どのように対処すればよいか,早く判断を下せる。Webカメラを付けたことで,その踏切のいたずらがなくなったという思わぬ副次的効果もある。カメラを付けたことを宣伝したわけではないのだが,いたずらをしようという人は,よく見ているようだ。

 これからできたらいいなと思っているセンサーは例えば,遮断機のバーのセンサーだ。バーは複数のパーツでできている。バーが折れてしまったときには,全部のパーツを持っていかざるを得ないのが現状。だが,パーツごとにセンサーをつければ,踏切に行く前にどのパーツが折れたのか分かり,そのパーツを持って現場に駆けつければよい。

 ただセンサー類のIPv6対応はまだまだなので,これからいろいろなセンサーがIPv6で使えるようになってほしい。

――ネットワークを含め,わざわざIPv6にすると費用がかさむのでは?

 IPv4で作ったネットワークをIPv6に切り替えるのは大変だろう。だが,当社は後発で現場のネットワーク化はこれから。最初からIPv6で作れる。

 IPv6は高いと言われるが,高いと思ったことはない。IPv6だからといって上乗せした金はない。やろうと思えばできるのだ。

 IPv6対応にすると高くなるとベンダーは言う。だが,ユーザー自身が勉強して,こことここを替えれば,IPv6になるでしょと指摘するとベンダーはグーの音も出ない。技術的なハードルは今や高くないのだ。IPv6にしないと買わない,とベンダーには言っている。

 たいした機能もないのに定価で売ってこようとするベンダーは許せない。もちろん,なんでも買い叩こうというのではない。高機能の製品にはちゃんとそれに見合った費用を支払う。

――沿線のネットワークはどのようになっているのか。

  写真2●駅近くの電気室に置かれたネットワーク機器 中央の米Cisco Systemsのルーターに光ファイバを接続している。

 沿線のIPv6実験網は,東海道本線の千里丘駅(大阪府摂津市)から芦屋駅(兵庫県芦屋),福知山線(愛称:宝塚線)の尼崎駅(兵庫県尼崎市)から新三田駅(同県三田市)に広がっている。最初からIPv6で構築した。

 この沿線に無線LANのアクセスポイントを設置している。アクセスポイントの数は東海道本線で76カ所,福知山線で56カ所。線路が真っすぐ伸びている部分では約500メートル間隔で設置している。カーブのところでは,電波が途切れないように見通しできる位置にアクセスポイントを付けた。

 各駅までは基本的に光ファイバで接続している(写真2)。光ファイバを引けない駅ではADSLを用いている。駅と駅の間のアクセスポイントは,線路に沿った既設の銅線を用いた自営のDSL回線で数珠つなぎにしている。このDSL装置はアライドテレシスに作ってもらった。


――無線LAN列車はどうなっているのか。

  写真3●尼崎駅に入線してきた「無線LAN列車」 左が無線LANのアンテナ。
 
写真4●米Cisco Systemsの無線IP電話 走行中の車内でもアンテナ・マークがちゃんと立っている。

 現在,無線LAN機能を搭載している列車は,IPv6対応のものが2編成,IPv4対応のものが4編成ある。JR西日本には約1140編成あるが,まだそのごく一部でしかない。

 無線LAN対応の編成には,先頭車両と最後尾の車両に外部のアクセスポイントと通信するためのアンテナを付けてある(写真3)。運転席の上部にモバイル・ルーターとハブを収納している。そして客室との境のガラスに列車内の無線LAN用のアンテナを付けている。

 無線LANでモバイルIPを利用して,走っている列車から途切れることなくインターネット接続ができる。いまは仕方なくIPv4のモビリティを使っている。車内からIP電話も使える(写真4)。米Cisco Systemsの無線IP電話機だ。走っている列車の中から通話ができる。


――ここまで来るにはいろいろ苦労もあったのでは。

  写真5●信号機の電柱に取り付けられた無線LANのアンテナ 運転席の窓ガラスの汚れが写っている。
 
写真6●走行中でも途切れないping クリックして拡大表示

 実験を始めたときは,走っている列車が沿線と無線通信できるわけないと思われていた。そこで,まずは自転車で走りながら無線LANができるか試してみた。それがうまく行ったので,今度はバイクで実験した。

 当初は無指向性のアンテナを使っていたが,指向性のアンテナに変えた。線路が延びている方向に電波がよく飛ぶように設置している(写真5)。電波が山などに反射して,複数の経路で時間差で届いてしまうマルチパス現象が起きて,受信状況が悪くなるところもあった。それを解消するために調整が必要だった。

 長いトンネルの中にもアクセスポイントを設置した。トンネルの中には電源がないので,特注の直流電源装置で駅からトンネルの中に電源も引いた。これでトンネルを含んだ実験区間で車内からほぼ途切れずに通信できるようになった(写真6)。