1周走れれば御の字
そのころ,先行開発チームに岸郷史が加わった。2003年夏のことである。それまで国内の商用車メーカーで自動MTを開発していた岸が,日産自動車に転職を決意したきっかけは,非常に明快だ。「いつからか,変速機を開発するだけでは満足できなくなっていた。その変速機を搭載したクルマを運転したい,所有したいと思うようになった。トラックやバスにはいつまでたっても乗れないけれど,乗用車なら少なくともチャンスはある」と感じていたからだと,岸は打ち明ける。
自動MTの開発経験が買われた岸は,間もなく原の開発チームに配属される。新たな力を迎えた原は,ここで大きな決断を下す。同年11月に開催される社内の技術評価会に,自動MTとデュアルクラッチ方式で参加することにしたのだ。このイベントは,先行開発テーマに対して役員が試乗などを通じて評価し,実用化に向けて本格的に取り組むのか,それとも開発自体を打ち切るのかといった大枠の方針を決めるためのものだ。この場で原は,次期GT-Rへの搭載を前提として,自動MTとデュアルクラッチ方式を経営陣に対しアピールしようと考えていた。
とはいえ,システムとしての完成度は,そのころになってもあまり改善されていなかった。サーキットを無事に回ってこられれば御の字,というありさまだったのである。
ポテンシャルは感じた
残された時間はほとんどない。それまでに,いかに完成度を高められるかが勝負となる。仮にイベントでの走行中に壊われてしまうようなことがあれば,厳しい評価が下されるだろう。しかし,そもそもイベントに参加しなければ,実用化に向けた開発というステージには進めないのだ。
実際には,イベント前日を迎えても,危険な状況は続いていた。会場となる栃木のテストコースを1~2周ほど走ったくらいで壊れてしまったのである。ギア同士がかみ合わない,クラッチが圧着しないなど,その症状はさまざまだった。
そこで原や岸は,壊れたらいつでも修理できるように現場で待機しておき,メンバーの何人かは神奈川の試作工場でスペア部品と共に有事に備えるスクランブル体制を敷く。最悪の場合でも,せめて社長のカルロス・ゴーンだけは乗せたいと考えていた。
ところが,イベント当日はそうした心配が全くの杞憂に終わる。開発中の自動MTとデュアルクラッチ方式を搭載した試作車は,参加したすべての役員を乗せた後もまださっそうと走れるくらいの状態だった。