東日本大震災から6年が経とうとしている。筆者はいまでも復興支援を手伝っており、この原稿も仙台市へ向かう新幹線の中で書いている。

 縁あって震災発生直後から被災地に入る機会を得たが、しばらくは現地に入るのも苦労の連続だった。しかし、止まっていた東北新幹線が少しずつ回復し、復旧・復興の拠点となった仙台市は活気を取り戻す。秋も深まる頃には、被災された方々の仮設住宅への移転もおおむね完了した。もちろん、通信インフラの復旧も同様である。

 そんな記憶をたどっていくと、災害発生時の「復旧」は、人智を超えたスピードで進んだと言える。しかし、それを使って人がよりよく生きていくための道筋はまだついていない。

 だからこそ、復興の歩みを止めてはならない。そんな「正論」を否定する人はいないだろう。一方でこの一年は、「なぜ東日本大震災の被災地だけ特別扱いなのか」といった声をこれまで以上に耳にした。

成長の限界は被災地に限らず

 人口や労働力の減少に苦しみ、インフラの老朽化に伴うメンテナンスに悩むのは、被災地に限らない。大都市を除けばどこも同じだ。東京以外の大都市ですら成長の限界を迎えている。あるいは東京都心部だって遠からず似た状況に─。そんなことを考える人たちが日ごとに増えた気がする。

 率直に言えば、そうした日本社会の衰退は、もはや逃れられない「予定された現実」である。人工知能(AI)やロボットの普及による生産性向上、または移民の受け入れによる労働力の補完など、いくつか対応策はあるだろう。しかしそれらが社会を抜本的に支えるところまで十全に機能するには、相応の時間を要する。つまり間に合わない可能性を視野に入れなければならない。

 それでもなお、我々は日本で生きていかなければならないし、活発な状態を維持しなければならない。

 もちろん簡単な話ではない。地域単位で考えれば、基礎体力を維持している地域が、AIやロボット、または移民の受け入れといった、様々な努力と工夫を重ねる。あるいは地域内移住を伴うような効率化の向上といった決断をすることで、ようやく到達できるかどうかという話である。そして、そうした地域をどれだけ増やし、ネットワーク化できるかによって、人口や労働力が減少する中でも活気を維持した国に日本がなれるのかが決まるのだろう。