「ちょっといいですか」

 頭上で声がした。単行本の校正に没頭し、下を向いていたからだ。顔を上げると同僚が立っていた。表情が目に入る。硬い。普段は柔和な人だが滅多に見ない険しい顔付きである。

 「な、何でしょう」

 「ここでは何ですから向こうで」

 通常の勤務時間帯は過ぎているが編集部に人は残っている。片隅にある打ち合わせ場所に連れていかれた。机に向かい合って座る。

 「外がいいのですが、お互い忙しいですし」

 社内で話しにくいことなのか。こちらが気付いていない間違いを仕事でしてしまったか。手掛けている単行本の編集作業が大きく遅れてしまい、関係諸氏に迷惑をかけている。ただし同僚には直接関係ない。業務上ではない私事への忠告ないし批判か。思い当たる節はないし、個人的なことを相談し合う間柄でもない。

 「ずっとお話したかったのですが谷島さんが編集部にまったくいないので」

 聞こえの悪いことを言う。集中できる別の場所に籠もり、単行本の編集と校正に没頭していた。「ずっと」と言うことは毎日いるかどうか確認していたのか。余程の大事に違いないが何の話か不明なままだ。

 「で、いったのですよね」

 同僚が話を切り出した。「いった」とは何だろう。失礼なことを言い、それが彼の耳に入ったのか。

 「いったと言いますと」

 表情が一段と険しくなった。惚けるな、と顔に書いてある。少々息苦しくなってきたが黙っていると同僚は周囲を見渡し、近くに他の人がいないことを確かめ、声を潜めて言った。

50代同士が交わす会話ではない

 「決まってるでしょ、ドームですよ」

 決まっていると言われても分からない。直前まで単行本の校正に専念していたから頭の中は本の内容で占拠されており、それ以外のことに気が回らない。怪訝な顔に苛立ったのか、彼は早口になった。

 「東京ドームですよ、東京ドーム。諦めていたのですが知り合いからチケットを譲ってもらえて、初日に行けたのです。谷島さんはファンクラブに入っていて翌日の追加公演のチケットが当たったと喜んでいたじゃないですか」

 その話か。やっと分かったが避けたい話題である。

 「ええとですね。ご存じと思いますが例の単行本の仕事で私は今、非常に忙しいのです。多くの人を待たせていますから、土日も連休も返上して作業を進めており、とても」

 「勤務時間外の夜だとはいえ、ドームのライブに行ったなどと社内で公言できないというわけですね」

 「ですから行ったとも行かなかったとも」

 「この話をしようと待っていたのですから惚けるのは止めて下さい」

 いい大人が何を言っているのか。彼の年を知らないがもう50代だろう。こちらは56歳であり、50代同士が交わす会話ではない。なぜなら東京ドームで開催されたのは10代の女性アイドルグループの公演だからだ。

 頭が動き出し、思い出した。数カ月前、女性アイドルについて本欄で言及した(『「絶対正しい」となぜ決めつけるのか』)。それを読んだ同僚から休日にメールが送られてきて、やり取りが始まり、「ファンクラブに入っているのに繰り返し応募しても東京ドーム公演の切符が当たらない」とこちらの窮状を伝えたことがあった。