仕事は仕事であり苦しくてもやり抜かないといけないが、その中で楽しさを感じとれることが本来望ましい。そのほうが成果物の品質も仕事の生産性も向上するはずだ。面白いと思える仕事であれば末永く続けられるだろう。

 何かを楽しいと思うかは人それぞれである。本サイトを読んでいるIT(情報技術)のプロフェッショナルの方々はどのような時に、あるいはどこに、仕事の楽しさを感じておられるだろうか。

 ITに関連した文章を書く仕事をしているものの筆者はITの仕事を実際にしたことはない。そこで記者ないし編集者という自分の仕事について楽しいと思える点を書きつつ、ITの仕事の楽しさを想像してみることにする。

何かをつくる

 ものづくりが楽しいという発言はあちこちで見かける。文章を書く仕事も何かをつくっているわけで、うまく書ければ心地よさがあり豊かな気分になれる。唐突だが永井荷風の『歡楽』という小説から、筆を手にして書き出す直前の様子を描写した下りを引用する。

 「平に皺一つない幾帖かの原稿紙の面に、小さな唐獅子の文鎮が鮮な影を描いてゐる。黑い四角な硯石のほとりに、二三本の優しい筆が、細く黄い竹の軸と、まだ汚れない白い毛の先を不揃ひに竝べてゐる。(中略)さまざまに浮び出た過去の感想は、溜り水の面に反映する空の色の如く、私が心の鏡に澄渡つて静止した。世の中に筆取る人しか知らない、味へない、窺へない、尊厳静肅な唯一の瞬間である」

 なぜ紹介したかというと、このところ毎日のように読んでいるので頭の中につい出てくるからである。本欄に前回掲載した『自分自身を“値上げ”する方法』の中に「本年は社会人になって30年目なのでそれを勝手に祝い、ある作家の全集を一揃い購入して毎日少しずつ読んでいる」と書いた。「ある作家」とは荷風であった。

 「幾帖かの原稿紙」とは和紙であろう。芸術家の仕事と記者編集者のそれとは当然異なるが、どちらも文章に関わっているので引き合いに出してみたものの、机の上に置かれた筆記用具は明治と平成で様変わりである。本原稿の骨子を万年筆でA3の洋紙に手書きし、ノートパソコンとワードプロセサソフトを使って清書した。洋紙に皺は無かったが書籍をつくった際の校正紙を裏返して使ったのでかなり味気ない。

 そのせいかどうか下書きをしていて書こうと思った事柄が「心の鏡に澄渡つて静止した」わけではない。それでも頭の中に出てきたあれこれを紙に書いて順番を整理し納得して、それでは清書しようと決めたときに、「尊厳静肅な唯一の瞬間」とまでは言えないが自分としては充実した気分になる。

 プログラミングをするITプロフェッショナルが最初のコードをキーボードから入力する瞬間、これからつくりあげようとする何かの姿が「心の鏡に澄渡つて静止」しているのだろうか。それはプログラミングをする「人しか知らない、味へない、窺へない、尊厳静肅な唯一の瞬間」なのだろうか。

何かがわかり、わけられる

 仕事を通じて何かがわかる喜びもある。ITのように次々に新技術が登場する仕事においては特にそうだろう。たとえ顧客あるいは上司から使用を強制された製品や技法であっても、それらを学び、理解すること自体は興味深い。