「○○時代に△△人材を育てよ」では×である。

 この一文の「○○」と「△△」には何を入れてもよく同じでもよい。「×」は「バツ」あるいは「駄目」と読む。最近の言葉を使った例文を挙げてみる。

 「AI時代にAI技術者を育てよ」ではバツである。

 「ビッグデータ時代にデータサイエンティストを育てよ」では駄目である。

 「攻めのIT時代にイノベーターを育てよ」では×である。

 上記例文の前半は今まさに言われていることで筆者が所属する日経BP社も同様の主張をしている。だが、それだけではうまくいかないと筆者は考える。

 その理由を述べる前に例文をもう少し紹介する。古い言葉を使う場合、「である」を「だった」に置き換える。

 「SIS時代にコンサルタントを育てよ」では駄目だった。

 「情報化時代に情報処理技術者(あるいはSE)が足りなくなる、だから育てよ」ではバツだった。

 「オープンシステム(あるいはインターネット)時代にC/S(あるいはJava)が分かるエンジニアを育てよ」では×だった。

 過去の出来事を文に入れてみると「×」は厳し過ぎるかもしれない。とはいえ育てようとしてその結果どうなったか。そこは問わないといけない。

 SIS(戦略情報システム)が喧伝された当時、「情報システム部員とそれを支えるコンピュータメーカーや情報サービス企業の技術者は経営者や事業部門に提案ができるコンサルタントのようになるべき」と言われた。いや、「言われた」としてはまずい。コンサルタントという言葉こそ使わなかったものの同様の主張を筆者も書いた記憶がある。