2000年1月、富士通の株価は後にも先にもないだろう最高値5030円を付けた。当時の富士通は「Everything on the Internet」という標語を掲げ、インターネットサービスのniftyを強化し、証券や銀行と矢継ぎ早に提携、ネット上の金融サービスに乗り出しており、それを株式市場が評価した。富士通の株価は現在400円台である。

 1年半後の2001年8月、富士通は1万6400人の削減を発表。同時に2001年度純損益見通しを2200億円の赤字(結果は赤字3821億円)と下方修正する。ネットバブルが2000年後半に崩壊、世界的IT不況が起きたためだ。2001年と2002年の両年度合わせて5045億円の赤字を計上、2年間で国内外従業員の13%、2万3500人を削減した。

 富士通が天国と地獄を見た当時、社長を務めていた秋草直之氏が6月18日、心不全で亡くなった。77歳だった。ご冥福をお祈りする。

先を見る目、腕力、親分肌

 秋草氏を後継社長に指名した関澤義氏は「先を見る目と腕力(やり遂げる心の強さ)、人柄(親分肌)で決めた」と述べていた。この人物評の通り、秋草氏は1998年から5年間の社長在任中、、腕力で様々な改革に挑んだ。

 「ライバルは米IBM」としていた秋草氏は、IBMがサービス企業へ変身し始めると、「富士通はもっと変わる必要がある」と考え、サービス比率を2000年度に40%にすると宣言。実際には37%にまで引き上げた。

 秋草氏はSEサービスの部門を長く担当し、1992年にサービス商品体系PROPOSEを発表した時の責任者。ハードウエアのおまけになりがちだったSEサービスを有償にしたPROPOSEは1993年に当時の大臣、故橋本龍太郎氏から通産大臣賞を授与される。

 組織も果敢に変えた。社長就任2年目には、49の事業本部長が直接、秋草社長に報告する文鎮型組織に変更。6人の上級役員が各事業本部を分担する体制を崩した。3年目には営業部門と本社に1300人いた販売推進スタッフを200人に減らし、多くを製品営業や地方営業、パートナー支援に振り分け、最前線を強化する。

 ハードウエア製品も疎かにはしなかった。米サン・マイクロシステムズ互換の大型サーバーを米市場に上陸させ、大手顧客を奪ったのも秋草氏だ。世界初のミッションクリティカルLinuxサーバー開発も推進した。