30年以上同じ出版社に勤めているが、転職の誘いをこれまで数回ほど受けた。とりわけ印象に残っているのは、ある米国企業の日本法人から来た打診である。10数年前のことだ。

 米国企業の依頼を受けた転職支援会社のコンサルタントから連絡があり、喫茶店で会った。新たな仕事をしたかったとか、当時の仕事に不満があったとか、そういうことは特段無かったのだが、そのコンサルタントに興味を持ったので話を聞いてみた。彼は日本人ではなかった。といっても日本語は流暢だったから英会話をしたわけではない。

「経験と能力を活かせる仕事です」

 開口一番、彼はある米国企業の名前を挙げた。その当時、日本進出が話題になっていた著名企業が依頼主だった。取材をして原稿を書いてきた筆者がその企業にどのような貢献ができるのか。コンサルタントは説明した。「記者の仕事ではありません。ですけれども、あなたの経験と能力を活かせる仕事です」。

 業務内容を聞いてみて、なるほどと思った。表から、つまり顧客からは見えないものの、その米国企業の事業から想像して裏ではそうした業務が必要だろう。記者と比べて面白い仕事とは思わなかったが、こなせる自信はあった。どのくらい貰えるのだろう。

 給与について知りたいという思いが顔に出たらしく、こちらから質問する前に転職コンサルタントは言った。「年収は下がります」。

 そのコンサルタントの顔を今でも思い浮かべることができるが数字の記憶は曖昧である。下がるという一点に気を取られたからだろうか。それにしても年収が下がる提案を持ってくるとはどういうことか。

 またしても顔に出たらしい。彼はにっこり笑って説明を続けた。「でも必ず定時に仕事は終わります。毎日6時に事務所を出られることをお約束できます。もちろん週末の仕事などありません」。

 考えさせられる打診だった。他人の原稿を読んで確認したり、社外の書き手に執筆の仕方を教えたりする仕事であったから、定時で帰ってかまわないのだろう。締め切りに追われて徹夜をする事態にはなりそうもなかった。