ITを使ったデジタル変革を──。多くの企業経営者や情報システム責任者に共通する課題に取り組み、成果を挙げつつある企業がある。創業100年近い歴史を持つ、米郵便関連機器メーカーのピツニーボウズだ。先駆者である米GEのサービス提供の手法を全面採用。長年の主力だったハードウエア事業を、ITを使ったサービス事業へと変えている。日本では無名に近いピツニーボウズの、知られざる挑戦を追う。

 「我々は米ゼネラル・エレクトリック(GE)をまねて、ITサービスの提供者に生まれ変わろうとしている」。こう話すのは、米ピツニーボウズでグローバル戦略製品マネジメントを担うグラント・ミラー副社長だ。

 ピツニーボウズは郵便物の発送に使う郵便料金計器で、世界最大手のメーカーだ。郵便料金計器は封筒の重さを測り、切手の代わりとなる郵便料金スタンプを押す機械の総称である。

 同社の機械を導入しているのは、大量の郵便物を発送する業種や部門だ。最大の顧客は企業の総務部門。電気、水道、ガス、通信事業者、金融機関をはじめとする企業が、役所や取引先に発送する書類の封筒に同社製機械でスタンプを印刷している。EC(電子商取引)企業も大口顧客だ。イーベイをはじめ、高級百貨店のメイシーズやバーニーズ・ニューヨークなどが、EC事業の商品発送業務に同社の機械を使っている。

モノ売りからサービス企業へ

 「2020年にSaaS(ソフトウエア・アズ・ア・サービス)などのクラウドサービスを主力とする企業に転換する」。同社のマーク・ローテンバーグ社長兼CEO(最高経営責任者)は、こう意気込む。まるでITベンダーの経営者のようだ。郵便料金計器などの開発・製造・販売・保守から、郵便物の発送業務に必要なソフトをインターネットを通じて顧客に提供するITサービスへと主軸を移す覚悟だ。

(写真提供:ピツニーボウズジャパン)
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 顧客が必要としているのは、郵便物にスタンプを押す装置ではなく、郵便物を送るために必要なスタンプそのものであり、郵便物を迅速に正確に届けること――。ピツニーボウズはこう考える。郵便料金計器などのハードは目的を達成するための道具にすぎない。

 同社のITサービス事業は、EC企業向けの「グローバルEコマース」やCRM(顧客関係管理)のデータ管理ツールを提供する「顧客情報管理」など四つの柱から成る。このうち、最も急速に成長しているのがグローバルEコマースだ。

 海外からも注文を受け付けるEC企業が、商品の配送に必要な送料や消費税、関税などを計算できるクラウドサービスを提供する。既存顧客である大手EC企業を中心に、全社の売上高に占める同事業の比率は、2013年の16%から2016年には25%にまで高まった。

 事業の主軸をハードからITサービスに移すことで、同社はこれまで手薄だった中小規模のEC企業も取り込もうとしている。そのための代表的なサービスが、商品の発送用ラベルを印刷するクラウドサービスである。同サービスをEC企業が自社システムから呼び出すための「シッピング(発送用)API(アプリケーション・プログラミング・インタフェース)」を開発。2016年4月に提供を始めた。

図 ピツニーボウズの事業領域の変化
100年の歴史を持つハード事業がデジタルで化ける
図 ピツニーボウズの事業領域の変化
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 同APIを使うと、EC企業はピツニーボウズの大規模な郵便料金計器を導入しなくても、市販のプリンターで発送用ラベルを印刷できる。やり方は簡単だ。まずEC企業は自社の受注管理や在庫管理などのシステムのプログラムに、ピツニーボウズが提供するAPIを組み込む。

 顧客名や住所などのデータをAPI経由でピツニーボウズのシステムに送ると、発送用ラベルの印刷用データが作成されてEC企業に送り返される。発送用ラベルはPDF形式で出力でき、市販のプリンターで印刷可能だ。主要な運送業者の発送用ラベルを作成でき、米国ならばUPSやFedExなど。日本国内での提供開始時期は未定だが、ヤマト運輸や佐川急便などのラベルを印刷できる。

 EC企業はラベルの作成枚数やAPIの利用期間に応じた従量課金方式で料金をピツニーボウズに支払う。数百万円規模の専用の機械を購入する必要は無くなる。予測していなかった急な受注の増減に対しても、必要な枚数分だけ料金を支払えばよい。

 同APIを利用している1社がクラウドファンディングサイト大手の米Kickstarterだ。同サイトは資金調達目標を達した商品を限られた数だけ出資者に発送する、EC企業と似た役割を持つ。

 出品者が発送用ラベルを印刷するのは、試作品が完成した一時期だけだ。長期にわたって商品を発送するとは限らない。必要なときに必要な枚数だけ発送用ラベルを印刷できるクラウドサービスの利点が生きる。もちろん出品者は郵便料金計器を購入せずに済む。

 グローバルEコマース事業でサービス開発の統括責任者であるジェームズ・フェアウェザー上級副社長は「商品を確実に送り届けるために必要な機能をクラウドを通して提供する。装置を売る必要はない」と説明する。

届け先の住所データの更新に強み

 二つめは「顧客情報管理」。物流やマーケティングなどを手がける企業が保有するCRMシステムのデータを有効活用するためのサービスだ。具体的には同社製のETL(抽出・加工・転送)ツールをクラウドサービスとして提供する。

 代表例が「Spectrum オンデマンド・サービス」だ。住所や氏名などといった顧客情報のデータ形式をそろえる機能を持つ。CRMで管理している顧客データを名寄せしたり、最新の内容に更新したりするのに役立つ。

 例えば「6丁目4番4号」「6-4-4」といった、同じ意味でも異なる表記で登録されているデータを統一できる。市町村の統合によって使われなくなった旧市町村名を、統合後の新名称に上書きする機能も持つ。

 変換の対象になるのは住所に加えて会社名、メールアドレス、電話番号、生年月日、なども含まれる。文字の半角と全角の違いも統一する。

 同サービスはピツニーボウズが届け先の住所情報データベース(DB)を更新し続けてきたノウハウを基に開発した。「郵便物を確実に届けるには、届け先の住所情報を常に最新状態に保つ必要がある」。ピツニーボウズジャパンの加固 秀一 ソフトウェア事業部 執行役員 営業本部長はこう説明する。

100年分の情報が生きる

 100年かけて蓄積し洗練させてきた情報も生かす。届け先の住所と緯度・経度をまとめた位置情報DBと分析ツールを提供するサービス「ロケーションインテリジェンス」が、第三の柱だ。2007年には地理情報システム(GIS)を手がける米マップインフォを買収し、同社のノウハウを基に開発した位置情報分析ソフト「MapInfo」も販売している。

 ロケーションインテリジェンス事業は米フェイスブックなど大手SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)事業者が利用している。スマートフォンの利用者の位置情報を利用してクーポンを配信する際に使う。

 利用者の位置情報に商業施設の場所や天候、利用者から聞き取った興味などを組み合わせることで、フェイスブックなどの顧客企業は単一のデータでは難しい精緻なマーケティング活動が可能になる。

 四つめの柱である「顧客エンゲージメント」サービスは、ロケーションインテリジェンスや顧客情報管理などのサービスを利用する企業を、主な対象としている。それらの企業に向けて、顧客の購買パターンや嗜好を分析するマーケティングツールを提供する。

 ピツニーボウズは郵便料金計器や、請求書や納品書などを自動で封筒に差し込むインサーター(封入封かん機)などを提供するメーカー事業自体も進化させている。無線通信を使って機器の利用状況データを知るためのIoT(インターネット・オブ・シングズ)端末「SmartLink」を2016年に開発した。

 オフィス向けの小型の郵便料金計器に同端末を接続すると、インクの減り具合を自動的に計測する。利用者が事前に設定しておけば、インクが無くなる前に補充分を自動的に発注できる仕組みだ。

米IBM出身のCEOがけん引

 ハード製品そのものではなく、顧客が必要とする機能をITを使ってサービスとして提供する――。製造業であるピツニーボウズがサービス業に変貌しようとしているこの考え方は、まさに「GE流」だ。GEは2015年時点で約50億ドル(5450億円)だったソフト関連事業の売上高を約150億ドル(1兆6350億円)と3倍まで拡大する計画だ。

 100年以上の歴史を持つ点も両社に共通する。ピツニーボウズは、共同創業者のアーサー・ピツニー氏が初めて郵便料金計器を実用化した1920年に創業。GEは1878年に発明王エジソンが創業した。

 「長い歴史を持っている企業ほど、事業構造の大転換が必要になる時期がある。当社も転換期を迎えていた」。ピツニーボウズのローテンバーグCEOはこう話す。

 ピツニーボウズが主力事業の転換に踏み切ったのは、売上高の減少が続くためだ。郵便料金計器などの事業は、2013年から2016年にかけて毎年3~7%減っている。同社全体の2016年の売上高は3406億ドル(3712億円)と、2012年に比べて1割以上減った。

 ローテンバーグ氏はピツニーボウズのCEOに就任する2012年まで米IBMに27年間勤めた。アジア太平洋地域社長や米本社のGlobal General Managerなどを歴任している。「ピツニーボウズのCEOという役職を打診されたとき、IT企業での経験が生きると考えた」(ローテンバーグCEO)。

 ローテンバーグCEOは2012年の就任時に、クラウドサービスを主体とした会社への転換を決断。事業構造を整理した結果が、新たな四つのサービス事業というわけだ。

図 ピツニーボウズが提供する主力サービス
ソフトやクラウドを事業の主軸に(写真提供:ピツニーボウズジャパン)
図 ピツニーボウズが提供する主力サービス
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システム基盤にもGE流

 郵便料金計器などの既存事業に活用するIoT技術を増やしてサービスを拡充させている。例えば機器の遠隔監視サービス「Clarity(クラリティ)」。GEが提供するIoT向けクラウドサービス「Predix(プレディクス)」を使って開発した。

 PredixはGEが航空機のエンジンやガスタービンなど、大型の産業用機器を長年にわたって設計、開発、製造してきた知見を基に開発した。機器に取り付けたセンサーで稼働データを収集・分析する機能を備える。

 「グローバルでIoTの活用に取り組む企業の先頭を走っていたのがGEだった」(ピツニーボウズのミラー副社長)。アナログ事業を転換してデジタルビジネスへ舵を切ったGEを見習っている同社にとって、システム基盤としてPredixを使うのは自然な選択だった。Clarityの顧客は全世界で75社。日本国内でも大日本印刷や凸版印刷などが使う。2017年中に100社まで顧客を増やす。

3年で200個のAPIを開発

 「公開するAPIは2017年時点で200個以上に増えた。3年前までは1個もなかった」フェアウェザー上級副社長はこう話す。四つのサービスや、郵便料金計器の遠隔監視サービスといった事業を成長させるために必要なのが、APIの整備だ。それぞれのサービス事業に必要な機能を、APIとして社内外に公開し、サービスを開発しやすくする。

図 業務機能をAPIで利用可能にする仕組み
社内の業務とシステムを全てAPIに
図 業務機能をAPIで利用可能にする仕組み
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 顧客企業は各種のAPIを自社システムに組み込むことで、ピツニーボウズが持つクラウドサービスの様々な機能の中から必要な分だけをインターネットを通じて取り出せる。例えば位置情報DBを分析する機能を使えば、SNSを運営する企業は自社で位置情報DBを構築する必要はない。

 APIの開発を始めたのは2014年。社内のITエンジニア約1100人全員に、API開発に不可欠なRESTful APIのスキルを学ばせた。

 API開発の生産性や管理効率を高めるため、外部のクラウドサービスも積極的に活用している。API開発には米IBMが提供する「Bluemix」や、米Amazon Web Servicesといったクラウドサービスを使う。開発したAPI群はAPIに特化した管理クラウドサービス「Apigee」を利用して管理している。

CDOとCIOの協調がカギ

マーク・ローテンバーグ氏
米ピツニーボウズ 社長兼CEO

Marc Lautenbach
Marc Lautenbach
 ピツニーボウズ入社前の27年間、米IBMに在籍。1998~2000年にアジア太平洋地域社長、2000~2005年に米IBMのGlobal General Manager。2012年12月にピツニーボウズの社長兼CEO(最高経営責任者)に就任。(写真:村田 和聡)

 当社はこれまで100年間、郵便物にスタンプを押す装置のメーカーだった。次の100年はITサービス企業に生まれ変わって活動する。

 GEのPredixをサービス基盤として採用した理由は三つある。GEの社内で培われてきた実績のあるアプリケーション、システム開発や運用の柔軟性、そしてGE自体がIoTやクラウドのサービスを開発する最高のパートナーであることだ。クラウドサービスを提供するIT企業は多いが、GEのPredixは既存のIT企業と比べても優れている。

 ITサービス開発に必要なものは優秀な人材だ。当社はITサービスを開発するため、グローバルな開発体制を敷いている。インド、東欧、英国、米国、オーストラリアにそれぞれ拠点を構えている。1万4000人の従業員のうちITエンジニアは1100人。うち800人がインドの拠点に所属している。

 日本での知名度は低いかもしれないが、インドでは優れたIT企業ランキングの上位5社に入っている。現地での当社の売上高はわずかだが、IT企業としては認められていると自負している。

 郵便料金計器などのハード事業をやめるわけではない。ITを活用して、ハードにも新たな価値を提供する。

デザイン思考で7割の製品を

 ITサービス開発に当たって重視しているのが、問題発見や革新的なアイデアを創造する方法論の「デザイン思考」だ。1100人いる当社のITエンジニアのほぼ全員が、デザイン思考を身に付けて実践している。

 ITサービスをはじめとする当社製品の70%は、デザイン思考に基づいて開発した。3年前までは約20%だった。

 デザイン思考を取り入れる利点は、新製品を市場に送り出すスピードと開発効率の両方を高められることだ。例えば発送用APIを開発する際には、当社が開発済みのシングルサインオンやオンラインのスタンプ印刷といった機能などを再利用した。結果として当初の予想よりも開発期間を1年短縮できた。

 デザイン思考は当社に大きな成長機会をもたらしてくれるだろう。詳細は言えないが、来年の売上高の目標を1年前倒して今年中に達成できそうだ。売上高だけでなく、競争力の高いITサービスを生み出すためにも重要と考えている。

 今後の課題は組織マネジメントだ。当社は「チーフ・デジタル・オフィサー(CDO)」や「チーフ・イノベーション・オフィサー」といった責任者を設けている。彼らはデザイン思考やデータ分析を駆使して新たなITサービスを生み出し、当社の事業構造改革を担う。

 一方で伝統的な社内システムを開発・運用して企業を支える役割のCIO(最高情報責任者)も存在する。

 それぞれが率いる組織や果たすべき役割は今は異なっているが、顧客向けのサービスや製品の開発と社内向けシステム開発の境界線はだんだんと曖昧になっていくだろう。顧客向けサービスそのものが、データやITの存在なくしては成立しなくなりつつあるからだ。

 それぞれの責任者や組織がいかに協調してITサービスの競争力を高め、企業全体として成果を出すか。どの業界にも確立したモデルは存在しない。当社の模索も、始まったばかりだ。