死を覚悟する2度の経験の後、働き方を変えた45歳のIT起業家がいる。40代で5年生存率が26パーセントの悪性脳腫瘍と生存率40パーセントの悪性リンパ腫という二つのがんを乗り越えた、オーシャンブリッジのファウンダーである高山知朗さんだ。

 休日もゴールデンウイークも働くのが珍しくなかったという、猛烈な仕事人間だった高山さんは、脳腫瘍を経験し後遺症も残る中、家族との時間を最優先、仕事は可能な限り部下に任せる働き方を選んだ。

 高山さんの選択は、あるべき働き方を考える全ての人間に強く訴えかける。



 コンピュータが好きで、いつかは実家の文房具店を継ぐと考えていた高山さんが、アンダーセン・コンサルティング(現アクセンチュア)、Web関連のスタートアップ企業を経て、自らオーシャンブリッジを興したのは30歳の時だ。オーシャンブリッジは、「つかえるITを、世界から。」をミッションに掲げ、ニッチだが特徴のある海外のソフトやサービスを見つけて、日本向けにローカライズして販売する。

 異変が訪れるのは、オーシャンブリッジを設立して10年が経ち、取り扱い製品も増えていくなど業績も順調だった2011年6月のこと。取引先と会うための海外出張からの帰りに立ち寄った、スイス・チューリッヒの空港で突然、意識を失い、空港内の救急センターに運び込まれる。

40歳で5年生存率25%の脳腫瘍に

 帰国して、訪れた脳神経外科で診察を受け、「脳に腫瘍があります」と高山さんが告げられたのは、ちょうどオーシャンブリッジの10年目の設立記念日。高山さんは40歳になっていた。この日を境に、創業者兼社長としてオーシャンブリッジを引っ張って来た高山さんの働き方、生活は一変する。

 脳腫瘍が見つかって、最初は5年生存率が25%ですと言われて、自分が死ぬ確率はかなり高いと思いました。たまたま医師をしている友人の紹介で東京女子医科大学の先生を紹介してもらって、僕のグレード、悪性度の脳腫瘍だと、一般的には25%なんだけど、女子医大で手術すれば78%の生存率だと言われたんです(筆者注:データは2011年時点のもの)。

 最初はグレードも3なのか、4なのか分からなくて、もし4だったら女子医大でも10%ちょっとの生存率だと言われていました。幸い手術は成功して、採取した組織を病理検査したら、グレードは3だったと分かりました。これで、もう大丈夫だ、何とか生き延びられたと思ったんです。

 2度のがんを乗り越えた高山さんは当時の経験を、オーシャンブリッジのビジネスや会社のことを当初書いていた「オーシャンブリッジ高山のブログ」と、「治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ」(幻冬舎)という書籍に記している。がんを知った瞬間、「娘の二十歳の誕生日においしいお酒で乾杯してお祝いする」(同書籍から)ことを人生の目標に定め、手術に踏み切った。

 だが当時1歳だったお子さんが二十歳になるまで生きる、つまり生きることを最優先にした腫瘍摘出手術に踏み切った結果、後遺症が残る。視野の左下を失ったのだ。

 左下が見えないで困ることはあります。街を歩いたりしているときは、障害物は下にありますから。僕は(神奈川県の)綱島に住んでいますけど、東横線に乗って会社に出てくるのに、渋谷駅を必ず通るんですが、人込みを歩くのは危ないんですね。

 大体の人は自分の目線よりも下にいるので、左側にいる人は基本的に見えない。そのままだとしょっちゅうぶつかっちゃう。左側をすごく気にしながら、左を手でガードしながら歩いているんですけど、それでもぶつかっちゃいます。

 あと運転が危ないので、車や自転車は手放しました。もともと車が必要な生活ではなかったので、問題ないっちゃ問題ないんですが。それ以外は普通に生活できているので、まあ、よかったかなと今は思っているんですけど。