連載を続けていると、「それはアジャイルではない」「あなたの書いていることは間違っている」といった意見が届くことがある。様々な観点のフィードバックをもらえるのはうれしいのだが、失礼ながら細かい点にこだわりすぎではないかと感じる意見もある。

 「スクラム以外でスプリントという言葉は使ってはいけない。これはルールだ」「アジャイルではユースケースなんて使わない。何か勘違いしているのではないか」といった反応で、「それは我々のアジャイルではない」と言われると、正直なところアジャイルの将来を懸念してしまう。

 ウォーターフォールで工程の呼び方が違う(例えば基本設計と外部設計)から、「それは正しいウォーターフォールではない」という声が上がるだろうか。もちろん誰もそんなことは言わない。ウォーターフォールは道具であり、それを現場に合わせて使っていると誰もが認識しているからだ。

 アジャイルもウォーターフォールと同様に道具でしかないのに、アジャイルに関しては、言葉は悪いが神聖化してムキになる人が多いように感じる。

 実際、このような議論は世界中で散々行われている。私の周りだけの問題でも、日本だけの問題でもない。興味のある方は「agile is dead」で検索してみてほしい。商業主義による誇大広告や囲い込み、それにブランディング(神聖化)などが、アジャイルの特異な立ち位置や胡散臭さにつながっていると指摘されている。

 もちろん、アジャイルではないものをあたかもアジャイルだと偽って吹聴する企業や個人はまだまだ多く見られるし、筆者もそのような活動は淘汰されるべきだと考えている。しかし相手を否定するだけでは前進できない。ましてや、アジャイルの存在そのものを否定する方向に進んでしまうと業界として大きな損失だ。

 筆者は、特定の方法論を推進するのではなく、適した方法論を現場に合わせてカスタマイズして活用すべきと考えている。現場によって事情が異なり、特定の方法論がそのままフィットするとは限らないからだ。ただ、このやり方は難点もある。手を入れすぎて、気がついたら「アジャイルでなくなっていた」という事態に陥る可能性がある。

 そうならないよう、いつも思い返すメモがある。「これをやったらもうアジャイルではない」という超えてはいけない一線、題して「アジャイルでなくなる七つの瞬間」である。

・「すぐに」ではなく「後で検討しよう」となったとき
・「決めてくれないから動けない」という声が上がったとき
・「決まっていることだから」と議論を妨げられたとき
・作ったものを「動作させてみる」ことが面倒になったとき
・反復(スプリント)の長さを変更したとき
・ものづくりをしない人の声が強くなったとき
・生み出すものの価値がチームの維持コストを下回ったとき

 アジャイルの価値は、「俊敏に変化に適応できる開発方式」という新たな選択肢を、ソフト開発にもたらすことにある。正しいアジャイルとは、形式的なアジャイルの定義に沿っていることではなく、「アジャイルでなくなる瞬間がない」ことだ。こうした考え方をすると、肩の力を抜いて現場の問題に取り組めるはずだ。