夕方。舞子は課長の衣笠に会議室に呼ばれた。部課長会議が終わってからの、このタイミングの呼び出し。なんとなく嫌な予感がする。舞子はとぼとぼと衣笠の後を追う。
「あのね、並木さん。購買システムを、来年度からグループ子会社にも順次展開することになったよ…」
衣笠は毛むくじゃらの太い中指で、眼鏡のブリッジを何度か上げ下げした。たまにその仕草を見かける。言いにくい話を切り出す時の手癖のようだ。
「まだ安定運用できていないのに、い、いきなりグループ会社に展開ですか?」
舞子は思わず言葉を詰まらせる。
――まだ1年、回してもいない(かつトラブルだらけの)未熟なシステムなのに、いきなり横展開しろだなんて…。まったくお上は何を考えているのだろう。冗談じゃない!
…と、舞子は深呼吸して怒りの言葉を飲み込んだ。少し前までの舞子だったら、ここで目の前の衣笠にキンキンと盾突いたに違いない。しかし、そうしたところでどうにもならないことを、舞子はもうよく分かっていた。もはや、逆らう気力すら起きないのも正直なところだが。
「で、まず私は何をすればいいのでしょうか?」
伸びた前髪をふわっとかき上げる舞子。
「あ…う、うん。まずはね、ナジミ倉庫の情報システム室長の佐原(さはら)さんと、購買部長の能見(のうみ)さんに話を持っていかないといけないんだ」
衣笠は妙に優しい口調で続けた。舞子から何の反論もなかったのが意外だったのか(あるいは怖がっているのか?)、愛想笑いを浮かべている。
「ナジミ…ですか。よりによって…」
舞子は顔を曇らせた。ナジミ倉庫は、アリアグループの中でも最も面倒な会社の1つだ。本体から出向や転籍した「うるさ型」の年配社員が多いと聞く。勝手に物事を進めては、後々面倒なことになるのは目に見えている。
「とりあえずね。来月に一度、先方を訪問したいんだ。並木さんに段取りをお願いできるかな?」
「はい…。承知しました」
2つ返事で受けた舞子。さて、どうやってアプローチしたものか?そこで、定時を知らせるチャイムが鳴った。
―――――
舞子はコンビ二の袋を片手に、自宅マンションのエレベーターに乗り込んだ。扉が開くと、正面の姿見に映った自分と目が合う。
――随分と疲れているな。
舞子はとっさに目をそらして背中を向けた。
部屋に戻ると手早くシャワーを浴び、さっき買ったハーゲンダッツのアイスクリームをテーブルに置いた。その足で、ウッドのサイドボードからファミコン本体を引っ張り出し、カートリッジをセットする。
「さてと、プレイ再開」
今日もドラクエの世界に身を浸す。おやすみ前の、ひとときの気分転換だ。冒険の旅は進む。パーティーのレベルは順調に上がり、新しい町に到着した。
「まず、町の人たちから話を聞かないとね」
軽快なBGMに合わせて、勇者まいこ率いるパーティーは町のあちこちを歩き回り、人びとに話しかける。
「うわさでは、この地下牢には抜け穴があるそうだ」
「王様は胡椒が大好きだ」
「この世界のどこかに、海の水を干上がらせる壺があるらしい」
「光の玉があれば、魔王の魔力を弱めることができるでしょう」
さまざまな情報を得ながら、「次にどこで何をすべきか?」「どんなアイテムを手に入れるべきか?」「誰を訪ねるべきか?」を考える。お城や町の人びとから引き出す情報は、宝なのだ。
――そういえば…
舞子はコントローラーを操る手を止めた。
――いきなりナジミの部長2人にアポを取って押しかけても、門前払いにされてしまいそうよね。まずは、周りの人たちに話を聞いたほうがいいのかもしれない…。
舞子はプラスチックのスプーンでアイスクリームをすくい、口に含む。チョコミントのひんやりとした甘さが、喉にじんわり広がった。